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何も考えずに手を動かす

こんばんは。

書きたいことがそれなりにある毎日でした(思いついた)が、ポッと穴が空いたように「何を書こうか?」となったので、思考をそのままに書いている。たまにはこういうのもいいのではないだろうか。

過去を遡ってみるとネタが無くなったのは、9/10の投稿が最後だと思われる。

念のためもう一度確認をしてみたところ、つぶやきで済ませている日がいくつかある。ネタがないのか時間が足りなくて書けていないのか不明だったのでネタが無いのは結構久しぶりなのかと思ったものの、全く久しぶりではない可能性も浮上してきた。

と、ここまで書いた所で繋ぎの文章が思いつかなくなる。どうしようか?と画面をスクロールし、今まで書いた文章を見直す。けれども何も思いつかない。

「あー」と脳内で叫んだ所で、見出し画像を作ることがそれなりに日課になったことに気づく。何か「やりたいやりたい」と思ったことも適当でいいから手を付けてしまえば、大したことやってないなと思えてしまう。理想があったとしてもそれが日常になってしまえば人間は何も驚かなくなってしまうのかなと思ってみたり。

作りたいことをやってみて気づくのは意外とそれを他者に知って褒められたいという欲求があることに気づく。個人的には自己満足で終われば楽しいことをやり続けられると思える。しかし、他人によってその物事が楽しいか楽しくないかを左右されるのは常に何かに振り回されているようで不安定に感じる。

人間は社会的動物なのである程度他者から必要とされることが本能的に必要なのかもしれない。今の社会は年代に関わらずどんどん孤立化が進んでいるので、自己完結する力は持っていて損はないと思う。けれども、科学的には孤立すると精神的にはよろしく無いという研究結果は聞いたことがある。日本人的な性質なのかは分からないが、誰かと繋がりたいと思いつつも自分からはアプローチできないという人が多いのではないか。かくある私もそんな1人である。

何かスラスラ書けてる~と思ったら止まってしまった。

もう一度書いた文章を振り返ってみる。ここからは整理しながら書いてみる。

振り返ると、「何かやりたい」と思って動き出すのは大事だと改めて思う。やってみて初めて分かることもある。と、書くと「意外と向いていなかった」「やりたいことではなかった」という話をよく聞く。けれども、やってみることで一段深い欲求に気づくのではないかと思う。表面的な物事ではなく、何がやりたいのか。私の例で言うと、他者に知って褒められたいようだ。あくまでも他人事のようだが、この振り返りの部分を除いては脳内の思考をそのまま文章にしているからです。

表面的な欲求を越えるともっと根本的(抽象的)な欲求にたどり着く。それが他者へ褒められたいというものだったが、その後に他者からの評価で物事をやりたいかやりたくないかが左右されるのは不安定であると書いている。自分の考え(自己完結)を目指すなら、他者へ褒められるというのもまだまだ表面的なことで、他者からの褒められた後の次のステップは何なのか?を考える必要がある。そもそも自分の考えは何かしらの思い込みによって生まれた幻想なのかもしれない。これは全く分からない。

と、頭が煮詰まってきたのでこの辺で止めておく。

タイトルは何も考えずに手を動かすだったが、結局は考えて書いてしまった。「結局は考えて書いてしまった」と書いて、自分の中で「考える」とはモヤッとした感情を言語化することを「考える」というのではないかと思った。

止めておくと言いながらもまた書いてしまったのでもう止める。

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