夏の暑い日に、田舎の記憶を辿る

こんにちは。渡辺やすです。

今朝は早起きして散歩がてら公園のカフェにいって仕事の振り返りとかをして、10時前には帰宅して甲子園を観る準備ができたので優勝です。

ふと、振り返る中で昔のことをいろいろ思い返すことがあったのでつらつらとnoteに書いてみようかなとおもいます。Google Mapで小学校の時に遊んだ道をめぐるのは良いです。

僕は田舎の生まれです。小学校低学年の時に遊んだ道の周りはGoogle Mapでみるとこんな感じ。カバー写真のように美しい景色の田舎もあるけれど、僕は自虐的に残念な田舎と呼んでいます。

小学6年に上がるタイミングで親の離婚で転校するんですが、同じ県内だし最寄りの駅に自転車でいけるくらいに近くなっただけで変わらず田舎で育っています。※元の家(上の画像の近く)は最寄りの駅まで車で20分くらいかかるので、今考えると高校通うのも下宿とかしないと苦労しただろうなーと。

母方についていったので中高はずっと反抗期でまともに口をきいた記憶なかったけど、高校野球があったからぐれなかったし引退するタイミングで家族へ感謝する気持ちができました。高校野球に感謝。

最近、父性や母性について調べる、考える機会が多くなったときは、何となくだけど父親と接する機会が少なく母方・祖父母が多かったからなんとなーく母性や感じつつも父性は欠けているんじゃないかと思っていたんです。

補足するとここで言う父性は、「挑戦・冒険の後押し」。母性は「安心・安全の心の基地」みたいなイメージです。学問的なバックグラウンドはないので、単純化し過ぎているし間違えていたらすみません。母性がかけている=安心・安全の心のベースキャンプがない、というイメージを持っています。

ただ、注意深く過去の記憶を辿ったり家族との関係を紐解いていくと、実は父性は結構担保されていて、母性がかけていたんじゃないかと最近気づくようになりました。
冷静に思い返すと、小学校入る前後くらいでは父親とふたりで霞ケ浦に釣りにいったり、夏は夕方に軽トラでクワガタ採りに色んな山に探検にいったり父親の友だちのバーベキューに連れて行ってもらったりしていたなと(このバーベキューの日の昼間に鹿島灘へ海釣りにいって僕が釣った2匹のカマスを誰か知らない人に食べられてしまったのは今でも根に持っています)。

対して母性。子どもの頃の古い記憶を思い出しても、自分の安心安全の場所は家庭にはなくて、人はいつかは離れていってしまうというひとりぼっちの悲しみは昔からあったんだろうなと感じています。人並みに子どもとして愛はもらっていたとは客観的にも思うんですけどね、この辺りはもう少し理解が進んだらまたnoteにでも書いてみようと思います。

そして母性が欠けることによる欠陥欠損。自分は、ケンカも強くないし、頭もいい人は沢山いるし、野球も下手くそで欠陥があるから人よりも練習しなければいけない。
これはテストで100点とろうが、オール5を取ろうが、野球でレギュラーを取ろうが、相対的には上には上がいるし僕は全然という気持ち。この自己肯定感のなさは深く根付いているけど、それがあるから運良く大学で東京にきて、地元にいたらできなかったようなチャレンジングな仕事を出来ているので、総じて運は良かったなと思っています。すぐに自己肯定感は持てるものではなくいつかは抱擁できるようになるんだろうなと思っています。焦らない焦らない。

などなど、この季節になると夏休みの思い出が蘇ってきて自分のルーツを探るのが非常に進むなと感じています。
父性母性の解釈はまちがえているかもしれませんが、今の解釈で自分自身を知るという点では非常に役立っています。

高校野球もあるし、夏は今も昔も大好き。これも間違いなく僕のルーツ。今年も何とか、高校野球も独自大会や甲子園交流戦が開かれて良かった。がんばれ、高校球児。

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