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子若支援者は小馬鹿支援者になっていないか ー埼玉県トンデモ条例・東近江市長トンデモ発言批判に寄せてー

某県のトンデモ条例や、某市長のトンデモ発言の抗議や批判、対抗言説をみながら、いろいろと考えている。
どちらも人権侵害で、抗議されてしかるべきだ。私も署名をした。
ただ、抗議のためならどんな言説もOKとは思えない。
すべては、人権の擁護と尊重を基盤に語られるべきだ。 

『子ども若者支援者には、無自覚な差別主義者が多い。』
障害を持った方々や、高齢の方々を主に支援している方々からと話すとよくそういうご指摘をいただく。

いいたいことは、よくわかる。

昔、私が所属していた著名な若者支援NPOの代表は、メンバーに向けてこういった。
『高齢者や障害者の支援と違って、子ども若者支援には社会にとって生産性がある』
更に信じられないことに、NPOのメンバーは、この無自覚な差別発言を共感しながら、首肯していた。

転職してスクールソーシャルワーカーとなって1年目、勤務していた自治体(現在勤務していない)のSSWスーパーバイザーはこういった。
『高齢者や障害者の支援も大事だけど、子ども若者の支援は国の将来に関わっているから』
いくつもの自治体のスーパーバイザーを経験している人だった。社会福祉士でもある。
この人は多分、社会福祉士であって、人権尊重と社会正義の専門家であるソーシャルワーカーではないのだろう。そう解釈した。
この人に限らず、スクール社会福祉士、スクール精神保健福祉士は少なくない。

そして残念なことに、子ども若者支援者だけの集まりで、こういった類の発言は、まぁ、よく聞いた(過去形)
子どもや若者は、ほかの支援を要する人たちよりも、生産性があるから、国や自治体、社会は投資するべきだ、的な言説。
最近はそういったみなさんをはっきり批判して距離をおいているので、個人的にはきかなくなったのだが、私がいないところではたぶんまだ続いてるのだろうと思う。実際、SNSではよく見る。

そして、子ども若者しか支援したことのない人たちはこの『差別意識』にまったくもって無自覚な人が少なくないのだ。
他の分野(障害高齢分野など)を経験してきた支援者は呆れ、嘆息する。『子若(こわか)支援者は、(子ども若者以外の人権を)小馬鹿(にしている)支援者だよね』
ある支援者が、そういって苦笑いした。

私は悔しいと思いつつ、その言葉を胸に刻み、自分が、小馬鹿支援者になっていないか、日々問うていてる。

冒頭に戻ろう。

『子どもの権利を侵害するな!』

もっともである。
子どもだけの遊びや留守番の否定、不登校の蔑視、フリースクール否定発言に憤ることは、大いに結構だ。人権擁護と尊重のための批判を、ソーシャルアクションをどんどんやっていこう。

そこに水を差すつもりはない。

そうは思っているが、SNSでの一部の言説をみていると、今回もいわゆる(無自覚なものも含め)生産性の観点・文脈からの批判は少なくない。
それを危うく思っている。

内容や発言者によっては、『あなたが人権や、他者の人権感覚、人権意識の欠如について語るのかぁ』と苦笑いとともに嘆息したくなる瞬間が正直ある。

どこぞの市長をクソミソにいっていますけど、
たんに『社会における価値ある存在』の線引きの位置があなたと違うだけで、その価値観で人間の間に線を引く限り、あなたも同じ差別主義者で全体主義者でしょう、と。

……私の未熟さと狭量さゆえでもあるのだが。

何度も言うけれども、
子どもの権利の前提として、すべての人間に人権がある。
その人が『生産性』のような他者にとってのわかりやすい価値をもっているかどうかに関わらず、だ。


そもそも価値も無価値も優劣もなく存在を肯定しているのが人権のはずだ。

子どもの権利(=人権)の大切さを説くために、(無自覚に)生産性があるからなど「社会的な価値」を訴えてはいまいか。それはそもそも人権の根源的な考え方と矛盾する。
なにより、その発想や言説は、一見子ども若者の人権を守るためのものであっても、結局はほかの誰かへの差別と周縁化を拡大させてゆく危ういものだ。そしてそれは巡り巡って、子ども若者の人権軽視にも繋がってゆく。

それを理解できているのか、本当に人権を尊重できているのか、
だれかの人権感覚を批判するとき、かならず己の人権意識と向き直すようにしている。


人権を語るなとか、ソーシャルアクションするなといってるわけじゃない。人のふり見て我がふり直せ。
誰かの過ちは、自分自身を正すチャンスでもある。
変えるべきは他者や社会だけじゃない。

だから、この投稿も、覚悟と自戒を込めて。

(2023年10月20日 Facebook投稿再編集)

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