■隠声6ー強欲企業がNPOを喰らう
私の体調不良もあり、officeドーナツトークの田中俊英さんとのトークセッション「隠される声」シリーズは半年間のお休みをいただいておりました。2021年5月より、シリーズ名を「隠声」にリニューアルして、月1回の無料配信でお送りしていきます。どうぞよろしくお願いします。
隠声6は、2021年度、有名な大手若者支援NPOが受託していたサポステ事業が、のきなみ某大手企業に受託を奪われていった現象について語りました!
■若者支援業界とサポステ事業の躍進
若者支援は、福祉制度等の対象となっていないこともあり、もともとNPOが活躍・牽引している業界であった。
2000年代半ばよりスタートしたニート状態の若者の就労支援機関「地域若者サポートステーション事業」(以下、サポステ事業)は、若者支援業界に大規模な仕事と「カネ」をもたらした。
不登校やひきこもりの若者支援、フリースクールや居場所支援をしていた支援者・団体からは、就労による社会参加や経済的自立を促すための次のステップの支援として、大きな期待と理想を背負って始まった事業でもある。
スタート当初は、とにかく意識が高い支援者と団体がサポステ事業に集まった。受託団体が従前から行っていた自主事業やノウハウと組み合わせながら、生きづらさを抱える若者たちの社会参加、就労のありかたを模索していった。若者支援を生業とするものにとって、とてもチャレンジングで魅力的な事業だった。
半年で就労等に結び付けなければならないという制約がありつつも、再進学や、職業訓練、福祉就労への接続も「成果」としてみなされたため、その人に会った進路やキャリアについて考え、センタードパーソン、クライエントファーストの理念に基づいた比較的柔軟な支援が可能であった。(もっともこの時期においても、生きづらさの程度が重たい若者は漏れおとされがちであった)
潮目が明らかに変わったのは、サポステ事業が「事業仕分け」の対象になった時だったろうか。支援や生きづらさ問題に対して知見がない人間にとっても、わかりやすく受け入れられやすい成果として、サポステ利用者はハローワーク登録が必須になり、雇用保険に加入できる就労のみが「成果」のカウント対象となった。そしてより強烈に「成果」が求められるようになる。
不登校やひきこもり支援、発達凸凹者、いじめ虐待サバイバーなどの支援をしている方々ならおわかりだろうが、生きづらさを抱える人たちのうち、わずか半年でそう言った就労に結びつき、かつそれが本人の意向であったり、最善の利益となるケースというのはごく一部の数%に限られる。
ここから、サポステ事業の急激な劣化がはじまっていく。
■サポステの劣化とコモデティ化ー新自由主義NPOの功罪ー
成果主義への傾倒は、利用者にとって最善の利益をもたらす支援の実現という視点から、成果につながるかどうかという視点へとサポステのありかたは変わっていった。
理想高いNPOの一部はサポステ事業から撤退していく。残った団体の中には「今の制度で支えられる人を支えていく」と明確に選別を明言し始める団体があらわれるようになる。主に「新自由主義型NPO」(新自由主義社会への転換に対して受容的ないしは肯定的であり、それにあわせた事業展開を行っていくNPO)と呼ばれる大手NPOに顕著であった。そういった団体に所属していた「少しでも利用者にとって良い支援を」「ひと手間をいきちんとかけたい」といった職人肌のスタッフが失望して、団体や若者支援業界そのものから去っていくという現象が起き始める。彼らの多くは、属人的な固有の魅力や、高い専門性をもった「有能な」人材であったが、団体からすれば「幹部層や運営にモノ申す」厄介な存在でもあった。こういった良心的な歯止めとなる人物がいなくなることで、団体と業界の劣化は加速していく。
新自由主義型NPOは「ビジネスの手法を取り入れ」、「仕組み化する」「効率化する」ことなどにこだわる。
仕組み化は、危機管理や、最低限度のレベルの底上げという意味では有効だろう。しかし、対人支援というのは究極的に言えば、支援者一人一人の個性と能力がこそが力になる。卓越した支援者というのは、人間的魅力も含めた強い個性と、他者にはまねができない固有のスキルや能力、センスを持っている。仕組み化・効率化はこういった属人性の高さを発揮する上での障壁になりやすい。「非常に意味のある一手間」「本来の役割から一歩だけ踏み出した踏み込み」を排除してしまい、支援対象の可能性やチャンスをつぶしたり、かえって支援が遠回りになってしまうことが多々ある。そうして、こういった仕組み化を考えるのは「一見、頭はよさそう(知識の多い、頭でっかちな)だが、支援センスにかける」幹部層がトップダウンで行われていくため、ますます現場の利用者本位から離れていく。そういった状況で数字的な「成果」を目指すことが、多くの当事者を実質的に選別し、漏れおとしていくことになる。
教科書的な対応は「最低限保証される質」(必要条件)であるにもかかわらず、それが十分条件とされるようになったのである。これはおそらく新自由主義社会における(利用者の費用負担ではないタイプの)支援現場に蔓延することでろうだろう。しかし、そうなった団体や事業、業界は、意識も専門性も高い人材から「選ばれる」ことがなくなるのは当然の帰結である。
■支援がコモデティ化された業界は、強欲企業の「餌場」になる
従前のNPOや福祉業界の、献身的かつ奉仕精神にあふれ、求道的な支援を行う団体・支援者が多い状況においては、仕組み化・効率化によって事業を運営する新自由主義NPOにとっては、事業受託において「安く・早く」数字をあげられるという優位性でもあった。
しかし、そういったコモディティ化された事業の展開は、大資本の民間営利企業のほうがはるかに有利かつ得意である。
魅力的で代えがたい支援者を抱えているわけでもなく、団体固有の育成ノウハウ、支援手法を持たず、地元の関連団体と協働したソーシャルワークを行わないのであれば、つまり個性と手間、熟練を要しなくて良ければ、より安く支援を行うことはできるのだ。
こういった現象は福祉の現場(高齢者介護、障碍者グループホーム、放課後デイサービス、就労移行支援事業など)で散々おきたことであり、力と先見の明のある事業者はかならず有能な人材の育成と確保、地域との協働を大切にして「代えがたい存在」となって生き残ってきた。そのため、若者支援業界においても、支援の劣化はいずれ新自由主義型NPOにとっての自滅の道にもつながると、一部から警鐘はならされてきたが、大きなムーブメントにはいたらなかった。
かくして、支援の属人性と専門職性の軽視、現場の軽視にもとづいた「コモデティ化」により2021年に某大企業が、若者支援NPOを「喰らう」現象へとつながっていたのである。
我々はここから何を学び、何に対して、どう働きかけていくべきだろうか。
しっかりと考えて行動していきたい。
■追記........
支援者には、料理人のような熟練とセンスと個性、創造性が必要だ。
支援のコモデティ化とは、ファーストフード化とも言いかえられる。季節や、天候、素材の質や状態、味と栄養、別の日の献立との組み合わせ、食べる人の心身の調子まで考慮するようなスローフード型支援を安かろう早かろうが駆逐していく、ということ。
ファーストフードばかりの食生活で育った人間と、スローフードで育った人間。
心身の健康や人生の裕さ(ゆたかさ)に明確に差が出るのと同じように、どちらの支援を受けるかで、全く異なる人生が待ってる。
あなたはどちらを選びたい?
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