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パンジーから思うマジョリティ的感覚

1.はじめに

 唐突ですがあなたはパンジーが好きでしょうか。私は嫌いです。正確に申し上げるならば、上の写真のようなパンジーのことではなく、とりわけ市街地や街中の公園で見かける、プランターや植木鉢にスポットで設置されるパンジーをここでは指しております。この花を街で見かけるたびに私はなかなか一言では説明できないムズ痒いようなイライラを感じます。

  タイトルと導入から捻くれた人間の偏見にまみれた話が展開されるのが目に見えるでしょうが、私の癇癪に少々お付き合いください。

2.パンジーに対して思う苛立ちの原因

 ーーー  パンジー(学名:Viola × wittrockiana、英: pansy)はスミレ科スミレ属の小型の園芸植物の一種。ーーー(wikipediaより引用)

  色とりどりの花を咲かせて並び、町の風景を彩るこの花に私が一抹の違和感と苛立ちをしばしば抱く理由は、私はこのパンジーの無神経さというか、ふわふわした感じというか、極めて人工的なところがとことん気に食わないからだ。役所の前や公共のスペースに設置されているプランターに植え込まれたパンジーなどは特にひどい。やっつけのくせに自信満々なのが内心腹立たしい。「殺風景だからとりあえずなにか彩りが欲しいな、そうだパンジーを置こう」という無神経なセンスがそこからはっきり伺えるのだ。パンジー利権というものが存在し、それによって得をする人間がいるから至るところで目にするという理由で設置されている方がまだ納得がいく。それよりも、あれを綺麗で美しいと思っているセンスの人間が一定数存在しているであろう事実が自分にとっては辛い。エクセルシートのように均等な間隔で、特に周囲の景観とのマッチングなどは意に介せずに植えられたバラバラな色のパンジー。周囲のアスファルトに散らばっている(恐らくプランターをずらした為に底からこぼれたと思われる)微量の土。体を掻きむしりたくなってくる。

 景観を彩るという目的のために設置されることがほとんどであると思われるが、その目的自体に空虚さを感じる。本当に景観を良くしようと思っているのではなく、景観を良くする為の数ある手段の中から「花を置く」「色彩をカラフルにする」という安易なものを選択しただけなのである。一番始めにその先の「景観を良くする」という本来の目的をおざなりにしているので全く血が通っていない無機質な彩りに見えるのだ。その手段を実行すればそれで万事が成功したと思っているのであろうか、空間に対してのパンジーの異質さが不快に感じるものとなっているだけである。また、都市の硬質で無機質な景観に対してのアクセントとしてもあまりにもお粗末なものである。つまり、これは手段それ自体を目的と履き違えているのだ。

3.終わりに

 書くのに疲れてきたのでタイトルの、マジョリティ的感覚を段階的に論じていくのがめんどうになったのでここから超絶的に飛躍して結んでいきます。(改めて段階的に述べる加筆修正を今後加えるかもしれません)

 私がパンジーを見るたびに沸き起こる感情は、消費をすることが目的の達成になっている社会や人に対する厭世感のようなものです。それは例えるならば「洋服は有名なブランドのものや雑誌で提案されるコーディネートやアイテムを購入しておけばおしゃれ」、「映画は人気の作品、評価の高い作品を鑑賞し、観賞後は他人のレビューで映画が伝えたいことを確認」、「飲食店はとりあえずレビューの高い店に入る」、以上のような行為から感じるものに類似しています。

  本来ならば、「洋服を買って自分の手持ちの服と合わせておしゃれにコーディネートをする」、「映画を見て自分が感じ取ったものを咀嚼し自分の考えを形成する」、「行ったことがない飲食店に入ってみて自分の味覚に合致する、もしくは口に合わない料理を食べて自分自身の味覚を意識したり、それを拡張したりする」、以上のような行為が意義のある消費であると私は思っています。つまりそれは消費によって得られる体験が、新たなアイデアやクリエイティビティ、表現に繋がるということを意味します。

 今の社会を私のひねくれた目から見ると、多くの人が前者のような消費それ自体が目的(付帯価値としての空虚な安心感)のマジョリティ的な選択を行い、そこで何もかもが終わっているように思えてなりません。(しかし、消費それ自体が目的となる場合もあるのでそういった消費の全てを批判する訳ではありません。)

  私の目に映るパンジーはそういった無目的な消費行為によって生み出される、血の通っていないものの象徴として、まるで街を覆い尽くすカラフルな看板広告のような非常に目障りなものであり、同時にパンジーに同情も抱かせます。




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