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「健常」「異常」というパラダイムについて

この前親子でアロハヨガに参加した時のお話です。

参加者の一人に発達障害を持った子ども(Kくん)がいました。その子はずっと同じ言葉を繰り返していました。

瞑想や静かなシーンでKくんのの楽しそうな声が響き渡りました。講師の先生が話している時もお構い無しに喋り続けます。

私たちは沈黙する場面、静かにしなければいけない場面では周りの雰囲気を感じ取り、合わせることができます。それがいわゆる普通である、健常であると見なされるのでしょう。

逆にKくんのように周りに合わせられない人は普通ではない、異常であるとみなされます。実際アロハヨガの参加者の中にはKくんをじろじろと見る人もいました。それはこの子は何かおかしいのかな、何か変だなと差別的な眼差しであることは明らかでした。

眼差しって怖いです。眼差しだけで人を傷つけ、排除することができてしまう。Kくんの親は周りの反応をとても気にしていました。「迷惑をかけてごめんなさい」と言っていました。

私はKくんの様子を見て、とても素直な反応をするのだなぁと思いました。楽しい時には全力で楽しんでいて、声を上げる。ジュースを飲んだ時は本当に美味しそうに飲んでいたし、そのジュースを私に一口くれようとしてくれました。

私たちはいつからか他者のまなざしを気にして、その場に相応しい振る舞いを身につけていきます。いつからか他者に求められる役割を演じるようになり、周りに変な目で見られないよう、良い人に見られるように振舞うようになります。その子と同じくらいの年齢の子はもう既にそのような振る舞いを身につけていました。親に叱られないような振る舞い、親に褒められる振る舞いをしていました。でも、KくんはKくんとしてそこに存在していました。

私はそんなKくんを羨ましく思いました。Kくんを前にすると、自分の存在に疑問を感じました。私は私としてではなく、社会の中で求められる自分を常に演じているからです。私って何なんだろう?

私はKくんが異常とは思いませんでした。いや、思わないって言ったら嘘になります。思った方が楽なのだと思います。そうしなければ、自分の存在を正当化できなくなるからです。

Kくんのように常に本当の自分で居られるということが健常なのかもしれません。そう思うと、自分の存在が揺らいでいくのを感じました。なぜ、私は常に偽った自分で生きているのか、その偽りの自分に生きづらさを感じているのにもかかわらず、私は偽りの自分で居続けている。何ともおかしなことです。

多くの人はそうやって生きています。私は人の名前を覚えるのが苦手です。それはみんなだいたい同じだから。でも、Kくんは覚えています。それは、"アロハヨガに参加していた人々"ではなく、"アロハヨガに参加していたKくん"だったからだと思います。

数が多い方が健常であるとするならば、私たちは健常でKくんは異常なのでしょう。

ただ、私は素直に生きているKくんが異常だとは思えず、常に作り物の自分で生きている、常に仮面を被って生きている自分に違和感を感じます。私の方が異常なのかもしれません。そんなことを考えていると、「健常」「異常」というパラダイムが揺らいでいきますね。

Kくんに出会ってからひたすらに

自己とは何か

私は何者か

ということを未だに葛藤しています。まだまだ頭を悩ませる日々が続きそうです。







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