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星の友情


何かが上手くいくと何かが上手くいかなくなる。というか、失落する。


先日、少ない友人の一人に、関係が壊れるのを覚悟で自分の思いを伝えた。どうしても「まぁいいか」で済ませられないことだったから。


「今から話すことは私があなたに対して感じた正直な気持ちだけれど、あなたを大好きな気持ちやあなたに対する信頼は変わらないよ。」

私は眠っている子猫を撫でるような思いで慎重に、敬意と愛を込めて話した。


壊れたか壊れてないかで言うと、壊れたのだと思う。

大切な誰かと深く、誠実に向き合い関わろうとするといつも失ってしまう。おかしいね、失わない為に勇気を持って向き合うのに。


大切じゃなければ、それに対して誠実でい続けることも向き合うことも、それに伴う勇気も必要なくなるけど、自分の身の回りは大切なものだけでいい。その中のひとつも欠かしたくないというのは、手放したくないというのはきっと無理な話なのだろう。


本当は、関係が壊れる覚悟なんて無かったのかもしれない。期待していたのだろう。きっと、分かり合えると。でも私はあの子が大好きだから、選んだ答えを信じよう。自分の選択も信じよう。信じなければいけない。


そういえばニーチェの「星の友情」はこのことを言ってるのかもしれない。


私たちは友人であった。だが疎遠になってしまった。そうなるのが当然だったのだ。


大切なものを失うことや、大事な人との別れは悲しい。どう考え直しても、振り解こうとしてもその痛みや喪失感はしばらくの間そばに居続ける。そして、さまざまな考えにたどり着く。「あの時こうしていれば」「自分のせいだ」「なぜ理解してくれないの」「こんなこと望んでいなかった」…


過去の私と今の私、変わっていないようで実は大きく変わっている。1秒前の私と今の私では見えない変化でも、1ヶ月前、1年前はどうだろう。私を司る、芯の部分は常に私の意識の中心にあるから変わっていないとしても、その外側を纏うあらゆるものは常に入れ替わり、アップデートされ、変化し続けている。


初めて話して意気投合したあの日、私たちの時間と道は確かに交わった。時に離れながらも、また交わり、同じ方向に進み続けていた。しかし、私たちは互いに変化し自分自身へと進んでいくために、進むべき方向もあの時と変わってしまった。


大きな海の上でたまたま出会った、それぞれの船に乗った二人。長い間同じ航路を進んでいた。けれど目的地が違うから、別れざるを得なかった。そうしなければ、お互いそれぞれの目的地に辿り着くことができないから。


私たちは他人の航路ではなく自分の航路を、自分の人生を歩まなければいけない。


私たちが疎遠になるしかなかったこと、それは私たちを支配する、あずかり知らぬ法によってである。まさにそのことによってこそ、私たちは互いにより深く敬意を抱くべきなのである。こうして、私たちのかつての友情の記憶はいっそう聖なるものとなる。


ニーチェによる多くの言葉からは、人間に対する大きな愛と、愛するが故にその不完全さや脆さを直視せざるを得ないことへの絶望を感じる。
ニーチェの哲学のほとんどは、この二つをアウフヘーベンしたものではないだろうか。


何かをきっかけにこの「星の友情」を知った時、分かったつもりでいたけれど、あまりわかっていなかったのかもしれない。だって、大好きな友人を失うことなんて考えられなかったし、想像もしたくなかった。


今、『星の友情』を読んで感じること。おそらくこれは、失うことも手にすることも恐れる必要は無いということを意味している。期待と絶望を繰り返しても、ニーチェのその運命や人に対する愛は消えなかった。だから彼は、彼なりのアウフヘーベンを繰り返して、新しいテーゼをつくった。そしてその思想に論理を組み立てることによって、自分の、人間に対する愛を守った。それが結果的に哲学という形で世に広まった。


ああやっぱり、哲学は面白い。ありふれたアフォリズムや誰かの理屈が、ある瞬間に突然、実体験とシンクロし、本当に自分のものになる瞬間がある。それにこそ、哲学書を読む大きな意義があるのではないだろうか。自分が感じたことと、知識として携えてた論理が一体化されて初めて、わかる。私はこの瞬間のために生きているのではないだろうかと思う。


大切な誰かを失っても、側にいても、私は変わらずひとりだ。愚かさゆえ、それを忘れてしまっていた。何度も、何度も。親密さの中にいると鈍感になる。きっとまた忘れ、そしてこうやって思い出し、答えのない問いについていつまでも考えるのだろう。それが、私の航路である限りにおいて。


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