音楽は執着なのか

何かを成し遂げられない、中途半端で終わることを繰り返してきた。

歌いたい、伝えたいというよりも過去に生まれたものを他人にも聴こえる形に、見える形にして生を終えたいというのが切なる願いであり、夢というより欲望である。

カセットテープに、イヤフォンをマイク代わりにして音を撮っていた時代に比べりゃ、東京に行ってオーディションを受けて事務所に所属しなくてはいけない時代に比べりゃなんと恵まれていることか。

仕事をして賃金を得て生活を守ることの大変さに夢はいとも容易く飲まれて、音楽を封印して生きてきたら、今度は精神がささくれだって、感情は乾ききって、痛みを痛みとさえ自覚する感性さえ麻痺してきて、まるで働く哺乳類。腹を満たすためだけの狩りをするために誇りに思えない仕事に体力も心も時間も差し出して、これでもかというところまで腐って腐って荒みを極めて、不毛な狩りをまだ続ける。恨めしい肉体と空腹にあっけなくひれ伏したくせに、音を鳴らしたい、言葉を発したい、脳にあるものをすべて吐き出したいだなんて欲望が沸き上がってくる。

仕事というか、結果というか、成果を評価するのは他人だと知った。

仕事と音楽。

人のためにやることと、自分のためにやること。

相反するように思えて、生きてる価値を見出せなかった10代の私は、音楽を捨てた。

もしあの時、作った音楽の価値は周りが決める、だからやってみろと自分自身に言えたとしたら、どうなってたのだろう。

社会保険や正社員の身分の大切さは痛いほどわかる。それでも、今はそれ以上に体の、脳味噌の奥底から湧き上がる音を作り言葉を紡ぎ発したいという欲望を抑圧することは、生の否定に近しいものだと痛いほどわかる。

これは執着なのだろうか。

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