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【短編小説】 浮雲BAR

狭くて急な階段を下りると、飾り気のない金属製の扉がある。
濃いグレーに塗られた扉にゴシック体でBARとだけ書かれている。
白いその文字は控えめな大きさのせいもあって目立たない。

古い雑居ビルの地下一階にあるBARという名のバーが、僕の行きつけだった。

カウンター8席だけの小さな店。
50代半ばと思しき店主が一人でやっている店。
華やかさも色気もない。特筆すべき特徴もない。
地味で控えめな、オーセンティックなバー。

僕がこのバーを初めて訪れたのは、30歳になって間もない、雪がちらつく寒い日だった。
なぜこんな目立たない、入りづらい店に入ったのか、よく覚えていない。
その頃の僕は、月に数回、大衆的な居酒屋で生ビールや焼酎を飲む程度で、さほど飲むのが好きなわけではなかったし、ましてやオーセンティックなバーなど足を踏み入れたこともなかった。

なのになぜか、雪のちらつく寒い日に、僕はこの店の扉を開けたのだった。

店内には、女性客と男性客が一人ずついた。
どちらも独り飲みの客のようだった。
カウンターの端の席に座り、ボトルの並んだ棚に目をやる。
僕には馴染みのない酒瓶ばかりだ。酒の種類も、名前もわからない。

普通なら、狼狽えたり焦ったりする状況だ。
けれどその時の僕には、なんの感情もなかった。
ただなんとなく「こういう世界もあるんだな」とぼんやり思っていた。

そんな僕の前に、グラスが置かれた。
オーダーはまだしていない。でも「あぁ、これだ」と僕は思った。お酒の名前もわからないのに、そう思った。
ゆっくりと、一口飲む。

ロックアイスで冷やされた酒は喉を通り、胸の辺りで熱く広がるような感覚があった。

ふうっと、小さく息を吐く。
首や肩のあたりがすうっと軽くなる。
久しぶりに呼吸をしたような気分になった。

ゆっくりと酒を味わい、ゆっくりと呼吸をする。
何かが僕の中から抜け出していく感覚があった。

確かここに来る前に、何かがあった。
けれど、何があったのかが思い出せない。
何かがあったことだけはわかるのだが、その何かがわからない。

思い出せない、わからないものは、もう捨ててしまっていいものなんだ。
靄がかかっていたような視界が、少しクリアになったような気がする。 
ふと天井近くに視線を移してみると、自分の吐いた息が小さな雲になって浮かんでいた。
独り飲みの客たちの息も、少し離れたところに浮かんでいた。

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