主観だけで自分と違う存在を悪いって決めつけるの辞めなよねって話
MBTIによるアイデンティティの単純化や、AI社会の台頭を前に、人をタイプで一括りにして考えることを放棄しているとかなんだかんだ言う人もいるが、残念ながらそのように論じている時点で、一括りにしてまとめるその試みは同じことだと思った。
私はよく「人間は」という主語を使うが、これは自分の発言が、特定の人物へ宛てたものではないためだ。これは一括りにしている、主語が大きいと言えるだろうか。私は違うと思う。自分の意見を述べるのに、宛名は要らないから意図的にこうしているのだ。
文脈上、主語が欲しい時がある。強いて上げるとすれば、この日本語を読める人間、というだけで、別に相手はAIだってかまわない。だが、人間の特性を述べる時に「AIは」とは使えない。仕方なく主語を置いているともいえる。
今や誰もが簡単にインターネットにアクセスできる時代になった。若い人もそれなりに人生経験を重ねてきた人も、このインターネットの大海原には誰もが平等に浮かんでいる。誰も底に足がついている者などいない。
ただ流し見ただけでは電子上に文字データとしてしか認識されないまでも、確実にそこに生身の人間がいることを思い知らされる。昨今の炎上のしやすさなんかを見ていても危機感を感じるが、正義中毒な人間というのは、もはや社会問題だと言えるだろう。
ここでいう正義中毒者とは、知名度の高い特定人物の、ある過ちや、気にいらないことがあるからという短絡的な理由のみで、鬼の首を取ったように相手を攻撃できる人間、いわゆる炎上に加担するタイプの人々のことを指す。
正義とは時に、簡単に悪に成り代わる。私がここ数年の社会の変化を観察して憂いているのは、このような人間が増殖してしまうことだ。いや、増殖というよりも、ネット社会によって浮き彫りになり始めているだけなのかもしれない。
他人の人生を覗き見ることのできる現代において、ひと時も隙を見せれば、有名人なんかは特に、すぐに火あぶりにされてしまう。これまで週刊誌が行ってきた悪道を、誰でも簡単に行うことができるということだ。そして、それに手を染める人間は、自分がかつては正義であったという幻想だけを信じつづけ、さも己が正しいかのように敵となる人物を攻撃し続ける。
そのターゲットとされうる人間には、高い精神性と成熟した価値観が不可欠であり、若い人なら簡単に壊れてしまうかもしれない。一方で、歳を重ねた人間であっても、文字として突きつけられるというこれまでにない体験に、参ってしまうかもしれない。
些細な発言に見えても、それを特定個人に向けて使えば、ただの文字だったものは簡単に凶器と化すのだ。このイメージを具体的に思い描けるようにしておくといいかもしれない。
「ペンは剣よりも強し」という有名な格言があるが、この言葉は現代社会の一般人にこそ意識されたい言葉である。
人間性が、人の心が、などとのたまう人間に限って、簡単に他者に言葉の刃を向けることがある。そのような人々が真に心を読み解ける人間であるというのであれば、心がないと思える人間の背景にも、想像をめぐらせるはずだ。
しかし大抵はそうではない。本当に心を認識しているのはどちらだろうかと、時々わからなくなることがある。
私も「この言葉は言うべきではない。これはこの組織の人間にとって、あなたの印象が悪くなるだろう」と言われたことがある。私としては、言葉を意図的に武器にして放ったものだった。まあそう言われ得ることはわかって、上を試したのだ。
その時の私には言葉を武器にするだけの大義名分と、心的ストレス原因を取り除きたいという目的があった。私は他者がどう感じるか、わかっていて発言していた。明確な意思を以て。意見を通すための武器としたのだ。結果的に、一番意思決定者に近い人間に、問題を認識させることが叶った。私はそれで満足だった。私が組織の人間からどう思われようが、以後同じようにこの組織に属する人間が同じ思いをするほうが問題だからだ。
私程度の人間の言葉で傷ついたり、簡単に印象が左右されてしまうような人間からの評価など、たかが知れていて、そんなもの私にとってどうでもいい。言いたいのはその言葉の後に続く私の主張の部分であって、そこを読み取らないのなら評価されても無意味なのだ。
いくら愛がある人間のように思えても、それは思い込みにすぎないのかもしれないのだ。なぜなら、この言葉を突き刺すに至った私の想いは、この静止によって無碍にされたのだから。まあ、別にどうでもいいが。
そのものを愛しているかどうか、という点よりも、真に組織のことを思い適切な選択ができる人間の方が私には印象がいい。であれば、大きな組織であればあるほど、自分の組織に対する過大評価があるだろう。愛なんてものは偶像だ。誰もがその組織を愛していると過信するのは、組織の傲慢だ。仕事は仕事であって、愛の大きさとか好き嫌いとかそんなもので私は動いていない。
話を戻すが、もしSNSで誰かをやり玉にあげたくなった時、その相手が心など信奉しない私のようなタイプであれば、相手を傷つける結果にはならないだろう。だがその時は、運よくブロックに躓いただけなのだ。相手が違えばその矛先は人間に刺さっていたのかもしれない。
悲しいかな、現代社会には簡単に心を傷つけられたと感じる人が確かに存在していて、それは多数派だということだ。身近にも、SNSは自由だからといって、有名人などに対する「思い」とやらを、良い意見も悪い意見も自由に発してもいいという人がいた。彼らに言わせればそれは「一評価」とされる発言であり、ファンとして正当な範囲の言動なのだそうだ。しかし、その人の発言は私からしてみれば、どの立場で申し上げているのだろうか、と思えるような傲慢な意見だった。
よく知りもしないネット上の姿しか、テレビ上の姿しか知らない人間のことを、よくもまあ物知り顔で上から目線で批評できるもんだなと、ニュース番組の胡散臭い評論家にも引けを取らないと感心した。
私はそういった個人に対する発言は今後、いくら自由なSNSでも、命取りになると伝えたが、本人には響いていないようだった。私も友人とはいえ、もう気にかけるだけ無駄だと感じ諦めた。
このような身勝手な評論や、大衆の一般市民による身勝手な意見にも、反撃が可能な世界は、既に整い始めている。
言論の自由は守られるべきだ。しかし、そのことを個人に対する攻撃の大義名分にすることは愚かとしか言いようがない。
今一度、特定個人に対する評論家気取りな物言いを改める時が来ていると思う。
Q,芥川