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夜がくるその度なんだか泣きそうで、はぐれないようその手を借りる

ラッコという生き物に、こんなに共感する日が来るとは思わなかった。


小さい頃に行った水族館で、いつか知ったこと。
あのかわいい生き物は、夜眠るときにある習性があるそうだ。

ひとつ、海藻を自分の体に巻き付ける。
ふたつ、海藻がない水族館なんかでは、海藻の代わりに自分と仲間の手と手をつないで眠る。

そうすることで、寝ている間に波に流されて仲間とはぐれてしまうことを防ぐのだと、いつかどこかの水族館で知った。

そしてあんな風にかわいいものじゃないけど、私も「ちょっとラッコの習性がわからないでもないかもしれない」と、最近そう思っている。



ふたり暮らしを始めてから、気付いたら1年近く経ってきた。
そうしてそのほとんどを、夜眠るときには手を繋いで眠っている。

いや本当に、こんなつもりじゃなかったんだけど。こうして書き出すと「惚気か仲の良さアピールかよ」と、本当に頭を抱えたくなるんだけど。


私たちは、街中で手を繋ぐことはない。人混みではぐれそうな時、たまにハーネス代わりに服やかばんをどこか掴むくらい。あとは「今日はちょっと貧血気味だなぁ」って日に、杖代わりに肩を貸してもらうくらい。
手を繋ぐというスキンシップ自体は全然嫌いじゃないけど、人前でやるのは「なんかもうちょっと今更できないね」というのが共通認識だ。

だから、元々眠るときに手を取ったのも、そんなんじゃなかった。
恋人としてのスキンシップじゃなくて、夜が怖い幼な子が親の手を求めるように、夜に隣で眠ってくれるひとの体温を感じたいって、ただそれだけだった。


何年か前ほどじゃないけど、それでも明日が来るのが嫌だって日は今でもある。
ううん、未だに翌日が仕事の日なんて常に「明日が来なきゃいい」と思ってる。9割8分の確率で。

それがわりと極致に達したときに、隣で眠る人の布団に手を突っ込んで掴んで、ぬいぐるみを抱きしめる子どもみたいに頬を寄せて抱えて寝たのが最初だった。

それからは、私が眠るタイミングで先に寝落ちでもしていない限りは手を差し出してくれるようになった。向こうから手を取ってくれることも多い。



自分でも不思議だったけれど、彼の隣で眠るのはびっくりするほど「普通」だ。

ひとり部屋を与えられて以降は、実家で暮らしていた頃もずっと、眠る時に誰かがいるのが苦手だった。

何かの都合で家族が隣の布団にいる時ですら落ち着かなかったし、寒いと言って同じ布団に潜り込まれると、そわそわして気持ち悪いと追い出していた。
部活の合宿や友達とのお泊まり会は当然興奮や楽しさもあって落ち着かなくて、これまで付き合った人と眠る時は「家族がダメな距離なのに、平気なのはなんだろうな」とずっと不思議がっていた。

でも、今はその不思議さすらない。本当に何も思わない。ただ当たり前にそこにある、としか。
「たぶんこれが本来の家族の距離感なのかなぁ」と思って、「結婚もしてないのに『家族より家族みたいだ』」なんて変なの、と思う。


その手を握ると、握っているのかいないのかわからなくなるくらい手に馴染む。同じところに触れ続けていると感覚はわからなくなるけど、確かに体温を感じるから安心する。
いびきをかいているから明らかに眠っているのに、無意識に手を握り返してくれるとうれしい。

ふと意識が浮上するとカーテンの向こうがもう薄明るい日もあって、また平日の朝が来てしまったと絶望しかける。でも、寝ぼけたその人が私を抱きかかえて窓際から引っ張り戻してくれるから「目覚ましに起こされるまではまだ仕事の時間じゃない」と再び眠りに落ちられる。
私が仕事に行きたくないと布団を恋しがっても起こしてくれる人がいるから、安心してギリギリまで現実を見ないでいられる。


夜になるたびに考えなければいいことを考えて、マイナス思考の波に呑まれそうになる。
でも、嫌だと思う明日も一緒に過ごす人がいる。この人も同じだと思い出す。

物理的に仲間とはぐれないように、波や敵から身を守るために海藻や仲間と手を繋ぐ、あのかわいいラッコの習性とは全然原理が違うけど。

誰かと手を繋いでいれば、少なくとも夜に襲う、漠然とした不安の波には流されずに済むようになった。この手があってよかった。
それだけでも、自分には無理だと思っていた「誰かと暮らすこと」をやってみた意味はあったと思える。

そうやって眠る私たちの姿はどんな風なんだろう。いつか一緒にラッコに会いに行って、お昼寝でもしていたら「寝る時の私たちと同じ感じだね」と笑って一緒に眺められたらいい。

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