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ハローハロー、顔も名前も知らねども、手にしたあなたを晴れさせたいよ

あけましておめでとうございます。
に、なってしまった。ギリギリ1月だけど、もう本当に1月も終わりだ。

前回の緊急事態宣言が出されてから異動までの約半年。その9割は定時上がりをしていたのに、異動してからはまた長時間ではないながらも毎日残業のある日々に戻った。
さらに日が短く寒くもなって、仕事終わりに散歩やランニングをできなくなったこともあるけれど、とにかく悲しいくらい、何か書こうという気が起きない日々だった。


薄々わかってはいたけど、私は、書かずにはいられない人間、ではないんだなぁと思った。
何かに思い悩んだ時に、書くことで整理するのが私のやり方ではある。過去の自分が書いたことに、数年後に救われたり心洗われたりしたことも何度もあった。
だけど、常に書いていたいわけでもない。何か悩んだことや気付いたこと、感情が動いたことがあったら、忘れないように書き留める。それくらいでよかった。


何かを書いて生きていくひとは、たぶん書かずにはいられない人なのだろう。少なくとも、書くことが苦痛ではない人だと思っていた。
私も、今の会社に入ってから異動までの約3年間の仕事は書く作業がメインだったから、自分もそうだと思っていた。書けることは文字数制限と社内規定と法律の間で決まっていたから、そんなにクリエイティブなものでもなかったけれど、それでも毎日書いていたんだ。


だけど異動してから、プロのライターさんたちとほぼ毎日接するようになって、わかった気がする。

たぶん大切なのは、書くことが苦痛ではないこともそうだけど、誰かに宛てた文章を書けるかどうかだ。
そしてそのためなら、ただ書くだけでなく自分が話して話を聞かせてもらうことも厭わないかどうかだ。


私だって仕事でライティングをしていた頃は、もちろんターゲットに合わせた文章を書いていた。
だけど、ヒアリングは大の苦手だった。それは営業の仕事だと思っていて(実際そうなのだけど)、私はヒアリング内容を元にただ黙々とライティングして納品していたかった。

思えば学生時代に行った新聞社のインターンシップだって、確かに「記事を書くのはいいけど、アポ取りや追っかけとか取材が無理だなぁ」と入社試験を受けることは諦めたんだった。
毎日毎日、取材をして記事を書いてくれているライターさんたちを、尊敬することはあれど「私もああなりたい」とは思わない。とても私にはそんなこと思えない。


誰かに宛てた文章を書くのは、大好きな人たちに宛てた文章だったらもちろん好きだ。
でも仕事だと、どうしても上っ面だけのものだった気がする。もっと教えて!って、質問が出てこない。所詮私の興味関心やバイタリティがその程度なんだ。

たぶん大事だったのは、なにかを書くにあたって、話を聞かせてくれる人や文章を受け取ってくれる人のことを意識するだけじゃなく、もっと興味を持つことだった。

「このジャンルは確かに好きだけどこれはちょっとな」なんて好き嫌い、あったとしても表面には出さずに、調べて詳しくなって「これも聞きたい!」くらい言えなきゃダメなんだろう。
だけど私は「それならやりたくないな」とか「このくらいでいいかな」で終わってしまうんだ。



届けたい誰かをはっきりイメージして書いた文章は、きっと届けたい人に届く。
そうnoteに書いていた方がいたのを思い出した。


私が書いた文章は、誰に届けたかったんだろうと思った。
まずはたぶん、いつかの自分。過去の自分へのアンサーとして書き留めることもあれば、未来の自分に今はこういうことを思って決断したんだと忘れさせたくないから書き留めたこともある。

それから、もしかしたらこのインターネットの海のどこかにいるかもしれない、過去や未来の自分によく似た誰か。
「どこかにいるかもしれない、いたらいいな」くらいだから、届いてほしいとは強く願ってないし願えない。


私が書く文章は、あの子に届けとはっきり思い描いて投げる紙飛行機の手紙じゃなくて。
まだ見ぬ誰かが、いつかどこかで受け取ってくれたら嬉しいなぁなんて、そっと流すボトルメールだ。

誰に宛てたものでもないから、誰も受け取ってくれなくてもまぁ仕方なくて、もしも誰かに届いて手に取って読んでもらえたらすごく嬉しい。
そうしてちょっと、差し出し人に思いを馳せたり、自分もこんなこと考えてたなぁと笑顔になってくれたらいいなぁ。なんて、流れ星にひっそり願うような、そんな弱々しい願いでしかない。



私の中に物語はない。私は自分の知ってるものごとしか知らないし、感じたことしか書けない。新しい世界を作ることはできない。
飽きるくらいに毎日小説や漫画を読んだって、自分ではひとつ話を書き切るどころか出だしの1行も書けやしない。何もゼロベースから生み出せないんだってことはもうわかった。

誰かを知らない世界に引き込んで連れていく、小説や物語じゃなくて、「自分もそうだよ」とか「あの瞬間をこう感じる人もいるんだな」とか言ってもらえるような、日々を切り取った日記だかエッセイだかわからないものしか書けない。

それすらもなんか、方言でなく標準語をしゃべり出した頃みたいに、格好つけた済ました文章でしか書けなくて。自分が誰かの文章を受け取った時みたいに、すんなり染み込んでくるような言葉で書けない。



そのくらいしか書けないけど、ひとりでも誰かにいいなって言ってもらえたら。
私は「ひとりじゃないんだ」と思えるし、その誰かにも「ひとりじゃない」と知ってもらえたかなと思えるから、書いたもの何ひとつ、消してしまおうとは思えない。

好きなことや感じたことしか書けない私は、書くことで生きていくことはきっとできない。
でも嫌いにはなれないし、これでも人よりちょっとだけ得意なことだし、「私と同じような誰かに届いたらいいな」と願うことはやめられない。
だから、こんなに細々とでも途切れ途切れでも、どこかで何かは書いていたいし消してしまいたくはないんだ。


今年も、新しい場所で新しい物事を見ることは難しいままなのかもしれないけど、今までと感じ方や考えることが何も変わらないわけはない。
こんな毎日でも、ちゃんと心の隅っこで生きてた証明を残したいし、誰かに少しでもわかるよって言ってもらえたら嬉しい。


ほとんどひとりごとみたいなものだけど、それでもここからひっそりと手紙を流し続けます。

感受性豊かな人ほど辛さを感じてしまうような毎日が続くけれど、そんな毎日にも意味やいいことを見つけるのも感受性あってこそだと思うから。
こんな殴り書いた手紙を受け取ってくれて最後まで読んでくれた、感受性豊かなあなたへ。今年も、どうぞよろしくお願いします。

何かを感じていただけたなら嬉しいです。おいしいコーヒーをいただきながら、また張り切って記事を書くなどしたいです。