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この文章は、株式会社マイナビとnoteで開催するコンテスト「#想像していなかった未来」の参考作品として主催者の依頼により書いたものです。

【社会人になった僕へ】

僕は野球馬鹿でした。まぁ年少から野球してましたから。
でも生涯青春というテーマで、将来の夢は青春の地「教員」でした。
なので、大学は野球推薦ではなく、一般入試を選びました。
初めての勉強。公文とか塾とかは行っていましたが、中2から勉強しなくなり、
人間は忘れる生き物で、
初めての勉強という感覚でした。

受験勉強ってどうやるの?なんで「the」ではなく「a」なの???がスタートライン。

ただ一個だけ覚えていたのは、
I  wish i were の仮定法。
仮定法が何かは分かりません。笑
でも仮定法はこの文字を使うという事だけは、
なぜか授業で覚えてました。笑

この頃から、「想像していなかった未来」という言葉を使っていたのかもしれません。
僕が覚えた構文は「もし鳥だったらなぁ」だった気がしますが。。。笑

そんなんで受験は、初年度センター前模試偏差値30。いや32とかかな?もうここまで行ったら30というインパクトしかなかったです。
志望校は日東駒専!!
落ちました。
でも初めて勉強の仕方とか、英語がほんの少し読めるようになったりして、
勉強の面白さに気づき始めた頃でした。
合格が欲しくて、一個受かりました。

ただ、同級生が夏休みも遊び、AOで受けて遊ぶという選択肢を取った大学でした。

お腹が痛いほど入学金を払うか悩んだ末に、
楽しくなり始めた勉強だからこそ浪人してみようと決断しました。

浪人が人生の分岐点

浪人して最初の模試はなんと偏差値50!!
現役も同じ模試受けてるからとチューターから喝が。笑
それでも夏休みの講習期間は朝8時に自習室に行き、夜10時まで勉強という生活で偏差値60まで上がりました!
いわゆるマーチも合格圏内!!
勉強がどんどん楽しくなりました。
ただそんな銀杏の香りもする秋、落ちました。。。恋に。。。
そしてそこからあまり学力も伸びず、、、
学歴コンプレックスを持って大学に入学しました。

ただ、受験戦争に負けても勝つキッカケをこの時期に得たのを気づくのは約15年後。

想像してなかった未来に近づいてしまったんです。

浪人生活では、色んな学力(ほぼ私より偏差値上)を持って、色んな地域で育った仲間作りができました。

そこで本当の意味で学んだのは価値観でした。

寮生活の高校野球時代と変わり、
めちゃくちゃ頭が良かったり、めちゃくちゃ遊び方を知ってたり、めちゃくちゃ起業思考が強かったり、めちゃくちゃ安定思考のハイキャリアを目指してたり、キラキラした社会人を描いていたり、お洒落な大学生活を描いていたり、そんな仲間ができました。

価値観の幅が人生の幅を広げてくれた浪人生活が、描く夢を少しずつ増やしてくれたんです。

夢は教員、でもハイキャリアで働いてみたいなとか、起業してみたいなとか、
そんな思考を持つようになり、
野球のポジションしか分からなかった自分が、
人生のポジションも知り始めることができました。

就職活動も控える時間、夢は教員でしたが、
初めてのバイト、人生経験したもの勝ちだと浪人で知ったので、一つのバイトを軸に、もう一つの収入源にほとんどの業界のバイトを経験していきました。
中古ブランド販売の催事バイトでは初日に90万円のエルメスのバーキンを売っちゃったりもしました。
そんな事をしていたら、教員免許を取得する為には留年しなくては単位が足りない事に気づきます。

あの日描いた夢の地図見つからなくても、もっと素敵な夢を描けば良い。

そこで、キラキラハイキャリアスーパー社会人を目指し就活しましたが、
大企業に就職することはできず、、、
思っていたのと全然違い結果を残しても、給与には繁栄されず刺激がない。
他のみんなはキラキラの一年生をしているようなLINEグループでの通知。

その後、東京で、経営コンサルタントで激務の中、少しキラキラしていたのですが、
少人数の中でしたので不安もあり、

やっぱり教員なのかなと通信制で足りてない教員免許の単位を取ることにしました。

教育実習は1ヶ月なので、会社も申し訳ない後ろめたさで少し早めに退職。

若くて、お金もない中、貯金を全て通信制大学に使い、教員免許を取得。
その頃には周りも落ち着き始めて、小慣れた社会人サラリーマンになっていき、
どこか置いてかれた想いもありました。

非常勤講師から始めて、遊びは断りつつ月一回程度にして何とか生活していました。
翌年常勤の話があり、
これで本格的に高校野球部に関われると!!

子供達のエネルギーはパワフルでこちらも元気を貰えて充実していました。
ただ10月頃に考え始めてしまいます。
何なんだろうか。現状維持が苦手なのかな、先生なので年功序列でどの年齢の先輩を見るとどういう生活をしているかが見えてきてしまうようになり、
10年後の自分の生活が果たして良いのか、、、
求めている物なのか、、、
そして、契約更新を断り、野球部の監督はそのままインストラクターとして続けて、
教員を退職しました。

想像してなかった未来への挑戦、残されるは起業。
社会人はキラキラしているイメージで、それを探す旅も残すは起業でした。

高校野球部の監督を月18,000円でやらせて頂きながら、サラリーマンでの貯金は教員免許に使ったので、教員での貯金を元手にと甘く考えながら、
遂に起業という挑戦をします。
浪人してなかったら、その考えにはなっていない。
受験に成功してたら超大手で働いてたかもしれない。
ただ起業。

這い上がるには、選択肢は1つでした。

右も左も分からない「社長」です。
野球部の時には思ってもいなかった。

ただサラリーマン時代テレアポ100件なんてザラにやっていたので、
怖いもの知らずとはこのことか!!!!
というくらいに当たって砕けろ作戦!
7年間でどれだけ頭を下げたか、分かりません。
どれだけ謝罪したかも分かりません!!笑

でも、怖いもの知らずは本当に強い。

どんどん道を切り拓いていくしかないので、
とにかく必死も必死。
借り入れもして、必死にA4用紙一枚に描いた、1枚のウェアを売る旅に出ました。
一文無しです。
毎月の返済もしていきます。

あれから7年が経過しました。

年商3億弱。

累計販売枚数も30万枚以上。

愛用しているプロ野球選手は500人以上。


社会人、スタートダッシュを失敗して、
紆余曲折して、
周りがどんどん使う金額が増えていくのを見て、
歯を食いしばって、
覚悟を決めて、

歩み出した7年は、
私だけではなく、
誰も想像をしなかった未来を創造した。

スポーツメーカーと言ったら大手しか浮かばないですよね?
そこに名前を並べられることができたんです。

想像はしてなかったけど、
信じてはいました。
絶対にやれると信じた7年間。

30代の折り返し。

信念を持って、
信じていた未来だけれども
誰も想像しなかった未来。

キラキラ輝いているのは、失敗を積み重ねて積み重ねて辿り着いた最後の場所。

高校野球でプレイヤーとして現役から退いてから、
全てが失敗で最後にたどり着いた夢が正解だった。

そして、遠回りする事で沢山の経験をできた。

失敗の先に成功がある。

ちょっと遠すぎやしないかい?

そんな想像してなかった未来。

高校野球部の監督をやりながら、、、

いま、
年商3億弱の社長に居ます。

#想像していなかった未来

アクティブーム というブランドが、

さらに想像していなかった未来を創っていこうと思います。

みんなが歩く道ではなくて、
人それぞれの生き方で良かったんだ。

それが本当の正解。
答えのない正解。

そしてこれからはようやく恩返しをしていけるのかな。と感じています。

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