記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

映画「哀愁しんでれら」 感想

哀愁しんでれら

福浦(泉澤)小春…土屋太鳳
泉澤大悟…田中圭
泉澤ヒカリ…COCO

※盛大にネタバレしています。
※まだ一度しか鑑賞していないため、セリフなど間違っているかもしれません。ご了承ください。







 鑑賞後に感じたのは、これはシアワセを見つけてしまった物語なのだということだ。
 
 児童相談所で働く小春の姿は、とても正義感があるようで少しだけ歪に感じた。
 私は以前、児童虐待業務に携わっていたことがある。そこで児童相談所の職員の方とも連携を密にとっていた。私自身そういう仕事につく前は、「児童虐待」という単語には嫌悪感しかなかった。まだ親にもなっていない頃、テレビで目にする痛々しいニュースを観ては、「親失格」だと吐き捨てたこともあったかもしれない。自分とは違う世界に生きていると、そう思い込んでいた。だが、実際に児童虐待として扱われる親たち、子どもたちと接して、彼らが触れてしまえるほどに近い場所にいるのをひしひしと感じた。それは子どもを産んでから、さらに近い場所になったように思う。
 それを同じように感じているはずの小春は、「虐待する親は親失格」と言い切っていた。ああいう親に自分もなるかもしれないと、最も恐怖を抱きそうな立場で仕事をしているはずなのに。しかしそれも、その後明かされた小春の生い立ちで払拭される。母親に明確に捨てられたという経験をした小春は、「子どもを傷付ける親は悪」だと言い聞かせながら生きてきたことで、今の考え方、仕事先なのだと腑に落ちた。過去が見えた途端に、今までの小春の生き方まで見えた気がした。

 虐待は、多くの場合きっと衝動だ。
 愛している子どもでも、人と人だ。頭にくることもあれば、許せないことをもある。そこに触れられたとき、自分の怒りや憎しみが抑えきれなくなったとき、気が付けば叩いてしまっていた。それが哀愁しんでれらの中で、二度も描写されていた。一度目は小春。あのときのヒカリの煽りは素晴らしかった。観ているこちらもまで手を出したくなるくらい、しつこく、しつこく煽ってきた。思わず手をあげた小春は、すぐに抱きしめ、謝った。だけど続けて「パパには言わないで」と言った。このとき、私と同じように思った方もたくさんいるだろう。
 ヒカリはきっと大悟に言う。何故なら、先に約束を破ったのは小春だから。渉くんのこと。おねしょのこと。だから仕返しに、ヒカリは大悟に言うだろう。
 小春はこのとき、ヒカリに怯え、大悟に怯えていた。まだ3人が本当の家族にはなれていないと、小春が願っていた幸せを掴みきれていない姿を見せつけられた。

 夕食の場で、大悟が小春に「肉なんかいいだろ」「食べることしか脳にねえのかよ」と怒鳴りつけるところもそうだが、2人の根本的な価値観のズレが随所に散らばっているのもうまいと思った。このとき小春は、単純にもったいないと思ったのだろう。今までなら手が出ないような高級な肉を焦がしてしまうことはもったいないと。その前に、化粧品をヒカリに勝手に使われたことを大悟に相談するシーンもそうだ。大悟は「また買えばいい」と言ったが、小春はヒカリに「物の大切さ」を教えたかった。人のものを勝手に使っても良い、いくらでも消費していい。そんなふうに思ってしまう子になって欲しくない。そういう思いが大悟には通じず、歯がゆかった小春の気持ちが、このとき怒鳴られたことでますます委縮したことろに、「母親失格」だと一番言われたくなかったはずの言葉を突きつけられた。人は近くなればなるほど、相手が何に一番傷付くかがわかる。そのナイフを持つことができる。それを小春に突き刺した大悟も、また衝動だったのだろう。ただヒカリを守りたい親だったのだろう。

 小春が出て行き、ヒカリが泣きわめいていたとき、ヒカリがただの子どもであるということを再確認した。小春の立場で物語に入り込むと、ヒカリが小春に攻撃しているように感じる。わざと困らせているのではと疑う。だけど、ヒカリはただの子どもだった。周りの人に、自分をただ見て欲しい、愛して欲しいただの子ども。傍から見たらそんなふうに見えるはずなのに、内側に入ったことによって懐疑的になってしまった小春は、だんだんと麻痺していたのだ。
 
 以前児童虐待の疑いを持っていた親子と公園で再会するシーンは、とても印象的だった。「こういう親にはなりたくない」と吐き捨てていた親子と対面して、小春は感じたはずだ。自分とは違う世界にいたはずの相手が、すぐそばにいることを。小春が呟いた「母親失格」は、自分に向けたものだったのかもしれない。

 哀愁しんでれらの中で二度、大悟と小春はヒカリの学校に赴く。
 最初に筆箱の件で行ったときに、職員室で喚く母親に大悟は「完全にモンペだよな」と軽蔑していた。
 そして二回目、ヒカリの靴を盗んだ窃盗犯は名乗り出ろと校内放送して教室にまで乗り込んだ大悟と小春は、まさにモンスターペアレントだった。すでに俯瞰して見られていないのだ。
 「うちの子がするわけないでしょ!」と叫んだ小春は、言葉にした瞬間、思ったはずだ。きっと小春が何度も目にしてきて、何度も「こうはなりたくない」と思っていた親の姿に、自分が重なるのを。このとき小春の中でリフレインされたのは、大悟とヒカリのことばかりではなかった。
 帰りの車の中で、ヒカリに確認しなくていいよねと大悟に聞いたのは、まだ残っていた小春の冷静な部分の問いかけ。大悟にもそれがあったからこそ、ヒカリに尋ねた。
 大悟はこのとき、ヒカリに向かって手を振り下ろそうとした。小春の叫びで我に返ったとき、一気に巡らせたであろう過去を受け止める表情が真に迫っていた。
 親は常に迷っている。迷いある中で、子どものためだとときに周りが見えなくなる。見ないようにしないと、向き合うものが恐ろしいのだ。
 大悟が、宝物だと言っていた全てを燃やすシーンは、まさにその迷いを象徴していた。親としてどうしたらいいかわからない。どうすれば「貴方は立派な親ですよ」と認めてもらえるのかわからない。大悟の母の「褒めてもらえない」という言葉を思い出した。自分が今親としてどうなのか、どこにも正解がない。手を上げようとしてしまった自分を責めて断罪するために、宝物を燃やして自らを痛めつけた大悟は、ただ必死で藻掻くひとりの親だった。

 鑑賞後にパンフレットを購入し、監督の言葉を読んで腑に落ちたこと。
 私はあのとき「ヒカリが突き落としたのを見た」と叫んでいた渉くんは、嘘をついてるんじゃないかとなんとなく感じていた。映画は、まるでヒカリが本当に殺したように、またヒカリなら殺してしまうんじゃないかと思わせるような流れだったけれど、先にも述べたようにヒカリはただの子どもだ。多くの子どもがそうであるように、人を殺すことまではきっとできない。渉くんもただの子どもだから、嘘ぐらいならつける。だけど、ただの子どもだからその嘘がどんな影響を及ぼすかというところまではわからない。渉くんが嘘をついていたという監督の言葉は、ああやっぱり、みんな普通の子供だったんだと納得させてくれて、同時に恐ろしくもなった。本当にこれは、あり得てしまうのだと。
 監督は、小春はヒカリを疑っていて、大悟は信じていたと話していた。これはどちらが良いとか正解とかはなくて、ただ親として、どちらにせよ、ヒカリを守ろうとしていた。
 小春が大悟に耳打ちして、抱きしめ合って天を仰ぐシーン。小春の瞳が絵と同じく青く、昏く光った気がした。このとき、きっと3人は家族になり、シアワセになったのだ。

 これは脚本の演出かどうかわからないが、ラストの予防接種のシーンで、小春がヒカリと指切りげんまんをしたときの歌がよみがえった。
 うーそついたら針千本……一億本飲ーます
 これを小春は飲んだんだろうか。そしてその針が、最後子どもたちにも向けられてしまったのだろうか。積み上げられていく注射器を見ながら、そんなことを思った。

 私はこの映画の予告を観ながら、小春は人を殺してしまうんじゃないかと思っていた。
 それは、子どものためや幸せのためなら、人はそうしてしまうという可能性をどこかで受け入れられるから。自分ももしかしたらというのを、完全に否定できないから。
 誰もが小春にも大悟にもなりえるというメッセージを、映画鑑賞終了まで徐々に受け取っていくストーリー展開だったように思う。

 シアワセすぎる、というメッセージが添えられた家族3人のあの絵が、この物語の結末なのかもしれない。
 3人だけの、縁どられた中で得られるシアワセ。他の何もかもが額の外の話だ。それはきっと、シアワセなのだろう。
 とりあえず、もう一度観たいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?