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若狭発!ごみが出ない社会の仕組みを、次の世代へ(後編)

みなさん、こんにちは!
ER.の鈴木です。

さて、前編では若狭湾をフィールドに海ごみアップサイクルをしている西野さんに、なぜ海ごみアップサイクルを始めたのか?ビジネスにしていくなかで抱える課題やその難しさについて、お話をお届けしました。
後編ではさらにもう一歩踏み込み、なぜそもそも福井県若狭に原発が建てられるようになったのか、当時地元の人たちは原発立地についてどう感じていたのか、今後の若狭という地域や海ごみアップサイクルというものにどう向き合っていく予定か?などをお聞きします。若狭地域の一市民として、また地域資源を最大限活用してビジネスを起こそうとしている一人として、西野さんから見える世界や目線をお届けします。

”未来”の象徴だった原子力発電所

ー 日本の原子力発電所のうち約20%が若狭湾沿いの地域に立地していますが、どのような背景で建てられるようになったのでしょうか?

原子力発電所誘致の話は1960年前後にありました。若狭に原子力発電所が建てられるようになった当時は高度経済成長期の真っ只中で、母や地域の人から聞いた話によると、原子力という最先端の科学技術を用いた発電所が地域に建設されるということは、日本経済の礎を築くことに役立つことができるとポジティブに受け止める方が多かったと聞いています。1970年には大阪万博も控えているなか、「未来の電気を送る」という名目で美浜原発が建てられましたが、まさに原子力発電所は”未来”を象徴するようなものであり、地元の人たちとしてもそこまで”怖さ”などネガティブな感情が表に出たわけではなかったようです。

美浜原発(原子力規制委員会より画像引用)

加えて大学進学や集団就職が加速し、昔でいう”サラリーマン”という職業に憧れを抱いた若者たちがどんどん地域からいなくなっていった時代。若狭はリアス式海岸であるがゆえになかなか道路整備が進みづらく、船でしかいけない集落なども存在します。そのなかで「半島の先端に原子力発電所が建てられるので、道路ができる」「原子力発電所を建てることで、「仕事がない」と言って都会に出ていった子供たちが地元に帰れるようになるかもしれない」という説明を電力会社から受け、地元の人も喜んで受け入れたと聞いています。

事故で変わる原発への目線、責められる地域 

− インフラも未整備で人口減や資金源に悩んでいた地域からすると魅力的に映った部分もあったのですね。そんななかで、原子力発電所に対する見方が変わってきたターニングポイントなどはあったのでしょうか?

そうですね、状況や見方が変わってきたきっかけの1つとして、1979年にスリーマイル島で起きた原子力発電所の事故があります。
1970年の大阪万博や1973年のオイルショックがあるなかで、日本各地で原子力発電所の建設が急ピッチで進められていきました。そんななか発生したのが、スリーマイル島の原子力発電所のメルトダウン。この事故をきっかけに、大飯原発建設に対して地域住民などから反対運動も起きたようです。

スリーマイル島の原子力発電所。
メルトダウン事故から40年経った2019年、原発の廃炉が決定した(AFPより画像引用)

もう1つは、スリーマイル島事故から約30年後に起きた東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故でした。特に福島第一原発の事故後は、「何でこんなに危険なものを大量に引き受けてしまったのか?」と町内町外の様々な人たちからハッキリ言われるようになり、反原発派から原発推進派までいろんな動きが起こりました。そう言いたくなる気持ちは理解できる一方で、原子力発電所の誘致や建設を進めている当時と今とでは、原子力発電に関する知識や入手できる情報量が圧倒的に違います。また戦後の民主主義も都市部でこそ機能してきたのかもしれませんが、地方では昔から有力者が発言権を持ちやすく、市民自ら意見を表明することもあまりなかったのではないかと思います。
今後も時代が移り変わるなかで、原発への見方は変わっていくかもしれません。それでも「そもそもなぜ、地域は原子力発電所を引き受けたのか?」という問いについては、その時々の時代背景を正しく掴んでいく必要があると思っています。

原発抱える若狭地域はどう見えるか?

ー 西野さんには原発立地という複雑な事情を抱えた若狭はどう見えているのでしょうか?

もともとこの地域の主要産業は漁業・農業・観光でしたが、原子力発電所が建てられたことで土木建設業だけでなく、酒屋や宿泊施設などの小規模事業主などが二次的に支えられてきました。一方、時代背景として大型スーパーが郊外にでき始めたタイミングも重なり、昔からあった地域のちょっとした商店の跡取りは安定・高収入を求めて原発関連企業に就職し、廃業したお店も少なくありません。若狭に原発が建てられてから丁度40年経ったあたりで東日本大震災が起きましたが、振り返ると原発に依存せずに自立していたらあったであろう産業基盤が一世代分、スパンと無くなっているように感じます。国からの補助金なども多く入るなかで、資金が潤沢にあるからこそ市民からの要望は役場がお金で何とか解決するという構造が生まれやすく、住民が知恵を出し合って解決しあうような自治の力が失われていくことを感じています。文化的な破壊や地域力の破壊を意図して交付金などの補償があるわけではないですが、いざ廃炉が進み、地域経済が移行せざるを得ないとなった際には、これまで積み上がってきたものが乏しく、寄って立つ持ち場がないことに危機感を感じています。

シャッターが増える若狭の商店街

ー ”公正さ”という部分で思うことはありますか?

正直、原発という産業があることで若狭の自然環境が開発から守られている部分や教育力が保たれている、という現状があるので、原発だけ取り出して不公平とか不当に扱われているとは言う気にはあまりなりません。3.11があり、若狭は地震や事故の直接的な被害は受けていませんが、色んな大きな影響を受けたややこしい地域であり、それから10年経っていることもあって、現時点で公平か?不公正か?と問われるとなかなか回答は難しいですね。
一方で3.11後に日本全国で再エネ導入が進みましたが、太陽光パネルが敷き詰められる際や山の上に風力発電所が建てられる際には、ふだん原発を反対運動している人たちが自然破壊やバードストライク、低振動などの理由で再エネ導入にも反対していました。自然破壊による再エネ開発は避けたいところですが、再エネもダメ、原発も火力もダメと反対するだけでなく、また専門家や自治体が考えることと線引きをするのでもなく、自分たちが使う電力に対してどういう代替手段があるのかを具体的に考えていく必要があると思っています。私たちのような原発立地地域自身も依存関係からの自律が必要ですが、電力消費地も供給地から自律していく動きがないと、この依存関係の構造は崩れないのかなと思います。
原発立地地域に生きる人々の様々な人間関係の事情もあるなかで、反対派の人が押し寄せてきたときにはそういった事情諸々も含めてすべて否定されているように違和感を感じます。その違和感はきっとみなさんが当たり前と感じている常識や公正さのなかに、私たち原発立地地域の人々の暮らしがないものとして認識されていると感じるところなのかなとも思います。

美しいビーチを有する小浜市(小浜市HPより画像引用)

ー 少子高齢化や過疎化も進むなかで、次の若狭には何が必要だと思いますか?

原発を有する”地域の次”とは何をもって次とするか・・、非常に難しいですね。廃炉が進んだとしても何十年もかかりますしね。なので、原発がなくなった地域が”次の地域”とすると、もう本当にかなり先の未来になるので正直現実味がないですし、想像できません。でも、10年前に全国の10代~30代の若者を100名以上若狭に集めて「MEEC(みんなのエネルギー・環境会議)若狭若者編」というイベントを開催したのですが、その際のゲストスピーカーの言葉で印象的だったのは、「若狭は”乗り換える船”をつくることを考えたほうがいい。例えばその船は小さい船を100つでもいい。」という言葉でした。若狭は今、乗り換える船がないから、震災で原発が止まったら必死で原発にすがるしかない。でも、乗り換える船があれば、少しずつそっちの方向に向かっていこうとする動きや議論ができるのかもしれない。私は大学院で原発立地地域の比較研究もしていたのですが、柏崎刈羽原子力発電所を抱える柏崎市では、「柏崎刈羽原子力発電所の透明性を確保する地域の会」という地域住民主体の団体があり、2003年から今に至るまで毎月説明会が開催され、透明性高い情報にアクセスできる場が設けられています。また柏崎市は市の経済における原発への依存度が高くないため、原発に頼り切らないからこそ、福島第一原発事故後も冷静で活発な議論が出来ているようでした。なので、依存度を少なくしていくことは必須かなと思います

また近年、原発立地地域でもある高浜町には、地元に戻られた方がコワーキングスペースの運営を始めたり、地域の起業支援を始めたりするなど、少しずつ新しい風が吹き始めています。

高浜町のコワーキングスペース「まちなか交流館」(福井県HPより画像引用)

原発立地地域に限った話ではないですが、閉鎖的になりやすい地域においては、外から来れれた人や戻られた人が地域で新しい事柄や産業を生み出していくこと、そしてそうした動きを地域全体で応援して一緒に栄えていこうという状態をつくっていくこと、この両面が必要と感じています。
高校の就職支援をしている先生たちからは、「3.11直後であっても、高卒で働く子の就職先が原発関係しかない。他に就職先があったら選べるようにさせてあげたいけど。」と悩む声も聞いています。いろんな難しさがありますが、未来の若狭のためにも地域内外の様々な人たちと連携し、小さな種を少しずつ撒いていくことが、今できることかなと思っています。

ー 原発立地地域のような地域事情で悩んでいるかもしれない人たちに向けて、何かメッセージはありますでしょうか?

私は大学院で原発立地地域である新潟県柏崎市の事例を研究していましたが、同じような事情を抱えながら全く違う取り組みが進められる他地域の事例に触れることで、自分の地域にとって何が普通なのか、何が違うのか、など大分客観的に見れるようになりました。知り合いの他県の人に「過疎が酷くて、原発なくなったら生きていけない」と言ったら、「うちも同じくらい田舎だし過疎ってるけど、原発なくてもやっていけてるよ。」と言われ、ハッ!としましたね。田舎は何かに頼ってないと生きていけないと思っていたけど、全然違うアプローチに取り組んでいる人がいることを知れると、「そうか、そういう風にしても生きていけるんだな」と思えるんですよね。なので、悩んだりしたときは「同じような状況に置かれてる他の地域はどうなんだろう?」と外に目を向けてみたり、他の地域の人と積極的に話をすることはとても大事かなと思っています。外の人と話をすることで自分のもやもやや悩みも整理されますしね。

海ごみアップサイクルは1つの起点。若狭を好きになる人材を育て続けたい

− 今後、西野さんはどのような活動をしていく予定でしょうか?

アノミアーナの活動については、せめて自分たちが食べていけるぐらいのビジネスにしていくことが今の私のミッションかなと思っています。海ごみビジネスを原発に代わる産業へ・・などとは全然考えられませんが、海ごみアップサイクル自体はとても楽しいので、何とかビジネスベースに載せていきたいですね。
あとは原発が地域にあったとしても自然も豊かで食も美味しい、教育力もあり穏やかであるこの地域を、若い子たちには好きになってほしいなと願っています。若狭高校の先生とは「この地域で仕事をつくっていく」という志を持った人材を育てようということで海洋環境保全以外でも人材育成部分で連携しているのですが、いよいよ、その教え子たちが高校を卒業したり、大学を卒業し始めたりする年齢になってきました。地域の実情に難しさを感じることはありますが、未来への希望の兆しを感じられているところもあるので、悲観せずにここまで来れています。人材育成を続け、30代、40代と彼らがさらに大人になって、色んな力を持った状態で帰ってきてもらえたら嬉しいですし、そのために地域の若い子たちへの活動は今後も続けていきたいですね。

若狭の自然を守る、を起点に繋がる様々な人たち

取材を終えて..

廃炉産業は数年〜数十年単位で続くと言われていますが、日本で廃炉まで終えている事例は、日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)が1963年に日本初の発電用原子炉として茨城県東海村で運転を開始したJPDR(Japan Power Demonstration Reactor、動力試験炉)しかありません。JPDRは1976年に運転を終了した後、1982年~1996年と約14年かけて廃炉作業が行われました。
今後の行く末が注目されるのは原子力発電所だけではありません。火力発電所もその多くが高度経済成長期に建てられていることから、リプレース(建替え)の時期に来ており、今後の利活用について検討が進められています。日本全体の電力需要も減少傾向にあるなかで、日本の発展を支えてきたエネルギーインフラ、そしてそれらの産業を支えてきた地域は、いよいよ大転換の時代を迎えようとしています。
西野さんのように地域が置かれた状況を受け止め、今ある地域資源や未利用資源を見直し、新しいマーケットや共感者、関係人口を少しずつ広げながら活動していくことは、ひいては将来的な地域の産業転換時に、その地域に生きる人たちの自律的な活動の必要不可欠な基盤となり、雇用移行が必要となってくる人たちや将来世代に対しての公正さを守っていくための大切な芽となる活動のように感じました。


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