イノベーションのエコシステムと産業クラスター
持続可能性を目指し社会を構成するあらゆる要素が再構築されていく時代
気候変動や環境汚染、資源枯渇のような世界の共通した社会課題はもちろん、人口減少や少子高齢化の中での持続可能な地域社会の実現といった課題。これらをその現場である地域が主導するイノベーションのエコシステムによって解決していく。それが新たな社会価値を創造し新産業の創出につながる。
ぼくがそう考えるようになったのは、Winny開発者である金子勇が亡くなる直前まで開発を主導した製品を事業化するために、いくつかの自治体で実証実験を重ねた頃でした。
地域の現場でその課題を実感しながら、解決に取り組んだことがきっかけです。
この活動を通じて、それまでの人生経験の中で聞いたり、学んだり、なんとなく理解してきたことが、一つにつながるようになりました。
文章にしてみるとこんな感じです。
「持続可能な地球と地域社会の実現という共通の目的のもとに、政府などの公共機関だけでなく、社会を構成するあらゆる要素や社会を運営するためのシステム(OS)の再構築が進む」
今回は、少し固目の話になりますが、この考えに至った背景や経緯を説明しておきたいと思います。
ちなみに、金子勇の一周忌にあたる2014年7月に、ぼくは代表取締役CEOとして金子勇の遺した技術による事業化構想を発表しました。10年近く前になりますが、デジタルトランスフォーメーションによる社会課題解決が生み出す価値や資本主義経済の再構築の可能性について触れています。
金子さんはその著書『Winnyの技術』(アスキー出版編集部)で自分が取り組むインターネット分野の技術と社会の関わりについて次のように述べています。
GAFAより早く、ブロックチェーンそして現在のDAOやWeb3.0につながる技術を発明し、100万人を超えるユーザーを巻き込んで、消費者主導型のブレークスルーを日本に金子勇は起こしました(たった一人で!)。
亡くなる前に取り組んだこの研究開発でも、ネットワークが世界の隅々にまで張り巡らせ、それが大量のデータを処理できるようにあると、ますます社会課題と技術は向き合うようになるという話をしていました。
金子勇は、たまたまあの時代を先取りして突き抜けたイノベーションをWinnyで起こしただけで、時代背景や技術の進化や成熟度の環境が変われば、まったく別のイノベーションに取り組み、そしてブレークスルー行き着くところまでやり続けた違いないと、今でも確信しています(ブロックチェーンの発明も彼なのかもしれません!)。
CSRからCSVへのパラダイムシフト
まずは、前回触れた「CSR = Corporate Social Responsibility(企業の社会的責任)」から「CSV = Creating Shared Value (共有価値創出)」への転換からはじめます。
企業活動においてそれまでコストとしての位置付けであった地域社会との関係性が、新たな収益機会や企業価値を高めるための活動となったという意味で、この転換はパラダイムシフトといっても過言ではありません。
提唱したマイケル・E・ポーターによれば、20世紀までの資本主義社会における企業を中心とする経済活動では「企業の利益と公共の利益はトレードオフがある」、「低コストを追求することが利益の最大化につながる」ことが支配的な考え方でした。
企業価値向上により株主の期待に応えるためには、企業間の競争によって社会問題、環境問題、経済問題が起こることはある程度避けられず(実際に資源は枯渇し気候変動は年々深刻化)、これらの問題が大きくならないように、規制やガイドラインを作るのが政府や公共機関の役目と言われてきました。
最近では、ぼくが信奉する英国経済学者のマリアナ・マッカートが政府の役割はそんなものではなく、政府こそイノベーターでありアントレプレナーであるべきと言ってます。これについてはまた先の方で説明します。
企業はCSRを果たす意味でその所属する地域などでの社会貢献活動によって企業の利益の一部を公共に還元すべきである、というのがそれまでの一般的な考え方だったわけです。
これに対して、ポーターが提唱した共通価値(Shared Value)の概念は、「企業が事業を営む地域社会の経済条件や社会状況を改善しながら、みずから競争力を高める方針とその実行と定義できる。共通価値を創出するに当たって重視すべきことは、社会の発展と経済の発展の関係性を明らかにし、これを拡大することである」とされます。
その上で、ポーターは、以下のように企業の存在目的やその前提となる資本主義経済そのものが再定義、再構築されるべきという主張を展開しました。
「いまこそ、資本主義に関する理解を新たにすべき時である。社会のニーズが広がり高まっていく一方、顧客、従業員、新しい世代の若者たちは、企業の進歩に期待している」
産業クラスターとCSV
CSVを提唱したポーターは「バリューチェーン」や「ファイブ・フォース分析」といった企業の競争戦略理論を1980年代に産み出してきたことで有名です。そしてこのCSVは2006年に初めてポータが提示し、2011年に発表された「Creating Shared Value」という論文で体系化された新しい概念です。
最初に勤めた日立製作所でぼくは、退職するまでのほとんど海外事業を担当していました。
前回も触れた通り海外の現地工場や販売会社、OEMアライアンス先との複雑なサプライチェーンの改善を検討する際に、DXにつながるBPRによるサプライチェーンの再構築提案ができたのは、ポーターの「バリューチェーン」を分析手法として学んだことからでした。
また、新規事業企画をする際に必ず業界のマクロ分析をするのですが、その際に活用するのが「ファイブ・フォース分析」です。直近でも自動車業界の新規事業企画に関わる機会があり、業界分析をしました。自動車業界は門外漢でしたが、この分析を使うことで自動車産業を取り巻く多層的な業界構造の変化を短期間で理解するのにとても役立ちました。
ポーターのこれらの競争戦略理論の共通点として「顧客価値の創造を通じた他社との差別化」が常にあると理解していました。そのポーターが21世紀になって、パラダイムチェンジとも言える新たな企業の競争戦略理論を打ち出したのが共有価値の創造(CSV)です。
それからポーターが提唱したもので他に有名なものに「産業クラスター」があります。
ポーターは1980年代を通して米国の競争力強化に関する大統領の諮問会議のメンバーでした。ちょうど、米国が第二次世界大戦後の圧倒的な産業分野での競争優位性に翳りを見せ、製造業を中心に日本企業の優位性が高まった時期に当たります。
ポーターはこの諮問会議での結論に不満に思い、独自の研究を重ねました。そこから生まれたのが「産業クラスター」です。「企業の競争戦略」の次に「産業クラスター」、そして「CSV=Creating Shared Value」という順番になります。
ポーターは国の産業優位性を決定するのは、その国の他国に対する産業優位を構築するクラスターの形成とその維持にあるということを、過去の産業クラスターの興隆と衰退を分析・研究することで理論として打ち立てます。
産業クラスターは、特定分野の「人」「モノ」「金」そして「知識(学)」を特定の地域に集中させることで、イノベーションが起こりやすい環境を作ります。それによって競争優位なコア産業を産み出します。そしてそこから関連する産業に広がっていくようになることを言います(クラスターは「房」という意味で、単一ではなく複数の産業が葡萄の房ように連なる様をいう)。
真っ先に思い浮かべるのはシリコンバレーではないかと思います。シリコンバレーは、サンフランシスコ・ベイエリア地域の南部にある複数の都市をまたぐ地域を指しています。
国土のサイズが違うので一概に言えませんが、かつては日本でも京浜工業地帯や阪神工業地帯といった複数の都市をまたがる重工業を中心とした産業集積地域の呼称がありました。エリア的にはそういう感じです。
この産業クラスターについては2000年代以降、経済産業省などが中心になって日本の多くの地域でその形成が試みられてきました。
神戸市は阪神・淡路大震災後の復興の中で「医療産業都市」を掲げ、ライフサイエンス、バイオ、先端医療、医薬、スパコンなどの産業クラスター形成に早くから取り組んできました。スタートアップが多数集積しているのもこの分野です。
シリコンバレーについては、ある意味特別すぎるので、その唯一無二の抜きん出た価値はあらためて掘り下げてみたいと思います。
一般的な産業クラスター理論では、さまざまな能力を持ったプレイヤーがその地域(舞台)に揃い、そのプレイヤー達がクローズド(内向き)にならずにオープン(外に開いた)に活動・交流し、単一の貴重や組織・集団では起こり得ない化学反応(イノベーションが)が起こることが成功の鍵と言われています。
地域におけるイノベーションのエコシステムとはまさにこの産業クラスター形成と言っても過言ではありません。自動車産業に象徴される系列やすり合わせ開発のように、かつて製造業で日本が成功させてきたモデルであるとも言えます。
CSVとスタートアップエコシステム
シリコンバレーがいつも例に上がるのでスタートアップの集積に目が行きがちですが、ポーターが産業クラスター理論を出した1990年代には起業家やベンチャー企業は要素のひとつにしか過ぎません。むしろこの産業クラスター形成の政策を進める中で、スタートアップが生まれ、成長しやすい環境がシリコンバレー以外の地域にも整っていったと考える方が自然なのではないかと思います。
イノベーションの最前線が社会課題解決へとシフトする中で、アントレプレナー(起業家)とスタートアップの役割が増大しました。
産業クラスター形成を実践した世界の多くの都市で、スタートアップ集積が進み、衰退していた都市が活性化し再生するという成功例が多数生まれました。
テスラがはるかに少ない販売台数で寡占化した世界中の巨大自動車企業を時価総額で圧倒したことが象徴的ですが、短期間で大きな成功を実現するスタートアップが増えるほどに、産業クラスター形成にはスタートアップの育成と集積が欠かせなくなっているのです(このレバレッジについては改めて説明しようと思います)。
ポーターも2011年の論文の中で、「社会起業家の役割」の重要性に触れています。
さらに、昨今のESG投資やインパクト投資への急速な資金シフトを示唆しています。
ポーターはこの「CSV(Creating Shared Value)=共通価値を創造する」の方法として、3つのことを提示していますが、その一つが「企業が拠点を置く地域を支援する産業クラスターをつくる」です。
2011年発表の論文ではこれを採用する例として挙げられるのはネスレなどの大手企業ですが、昨今はユニコーンとなるような有力なスタートアップ企業自身が自らこの方法をとるケースも出てきていると思います。製造業における共通価値創造の今後の中心的テーマの一つであるサーキュラーエコノミー分野ではまさにこの地域の産業クラスター形成(サプライヤーや静脈産業の集積)が鍵になってくると考えます。
失われた20年の間に世界で起きていたこと
マイケル・E・ ポーターという企業の競争戦略における経営学の巨人が展開してきた理論を通じてわたしの中でつながったことをまとめると、
・イノベーションのエコシステムには地域における産業クラスター形成が必要なこと
・企業と地域が共同で社会的価値を創出することにより、地域で活動する企業の経済価値(企業価値)が増大し、関連企業や周辺産業へと広がっていくこと
・その活動の中心が大企業や公共セクターから起業家やスタートアップ企業(それを支援する投資家)にシフトしていっていること
になります。
これが、日本にとって失われた20年と呼ばれる時期に世紀をまたいで世界で起きてきたことです。
それは国家間というよりは政府の支援を受けた地域を舞台にした産業クラスター(=イノベーションのエコシステム)形成による激しい競争です。
そして、まさにその間に日本は東京一極集中を続け、それまで地方に分散していた製造業を中心としたクラスターが競争力を失っていきました(自動車産業とゲーム産業(その後は衰退)だけはこの間に強くなった。なぜなのか、これも興味を惹く研究テーマです)。
また、金子勇を筆頭にこの間に萌芽があった多くの失われた先端分野のイノベーションの価値は、この文脈でも再評価する必要があると思います(これはゲーム産業との関連から見ていく必要があると思います)。
スタートアップや起業家が集積するイノベーションのエコシステム=産業クラスター形成は地域にとってはもちろんのこと、国家にとっても産業力強化や経済成長を実現しながら持続可能な社会を両立させていく上で、もはや不可欠なものとなっていると言えます。
中央集権型の統治体制をとる日本にとっては、それが良いかどうかは別として、地域社会の維持と発展においてとても重要なことです。
なお、産業クラスター理論の中で、ポーターは政府(地方政府=自治体も含む)の最も重要な役割は、公平な競争環境の整備とクラスター内のネットワーク形成の支援であるとする一方で、1991年には適切な環境規制が企業の効率化や技術革新を促し競争力を高める可能性があるというCSVにつながる考えを仮説として発表しています。
次回は、その政府や公共機関が中心になってきた規制への取り組みがどのように変化してきたのか、そのことが企業や地域にどのような影響を与えているのか、20世紀の半ばまでさかのぼり俯瞰することで、あらゆる事業活動を進めていく上で、前提となりつつあるSDGsやESG、パーパス経営につながる大きな流れを紐解いてみたいと思います。
神戸市 チーフ・エバンジェリスト 明石 昌也
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