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最後の帰省

子供のころから慣れ親しんでいる道は、深夜に歩いてもこわくない。どんな細い路地も、くまなく通り抜けつつ遊んでいたから、たぶんGoogleマップより詳しいと思う。町名やそれぞれの雰囲気も、身体で知っていて、住んでいる人の姿までもが、ぼんやり思い浮かぶ。
東京に住んで30年。人生の半分以上を東京で生きてきたのに、大阪に帰ると心底ホッとするのは、今も変わらない。

実家が空き家になって、3年経った。
最後に住んでいた母が施設に入って、家に誰もいなくなったとき、予想外にうろたえた。あそこに帰ればかならず誰かしら家族がいる。そうじゃなくなる日のことなんて、想像したくもなかった。
空き家になったからといって、すぐに人の気配が消えるわけではない。匂いが薄らいでいく実家にときどき滞在しては、施設の母の見舞った。

以前、実家には母がひとりで住んでいた。認知症の進んでゆく母が心配で、たびたび泊まりに行った。母は気丈だったが、記憶の自信がなくなってゆくにつれ、不安と恐怖に苛まれ、異常に甘えてわたしから離れなかったり、訪問者を警戒しすぎて誰彼なく怒り出したりする。倉庫には、壁一面を埋め尽くすほどのトイレットペーパーが積み上げられ、冷蔵庫には、アオハタのマーマレードが6個あった。

「一緒に住んでちょうだい」
半ば命令のように懇願されることも度々あったが、長らく離れて暮らしてきたもの同士は例え母娘であっても、生活パターンが違う。母娘であるからこその甘えが重なると、一触即発で喧嘩になる。生きるの死ぬのとののしり合う喧嘩も何度かやった。それが常となるのはさすがにきついので、長くても2、3泊しかしなかった。

空き家となってからは、そういった心配もなくなり、なんなら空き家を管理しなければならないわけで、実質上わたしの家のようになった。さしずめ別荘である。

母の家。母が大事に住んできたこの家を、自分のもののように思うことに、罪悪感が湧かなかったといえば嘘になる。けれど、母を施設に見舞うことの、心の仕事の重さを引き受けるためには、休む家は居心地の良い場所にする必要があった。

東京から、実家に向かう新幹線に乗るとき、自分の目的は「見舞い」でなく「別荘でゆっくり過ごす」に設定する。そうすると、いくぶん心が浮き立つ。

施設へ見舞いに赴き、母と1時間ほど過ごす。職員の方から体調など様子を聞いて、着替えを差し入れたり、支払いをしたり、各種書類を書かされたり、結構、細かい仕事がある。体調によっては病院に連れ出したりもする。

けれどそれくらいの事は、本当に楽なものだ。家で介護をしようものなら、2日で殴りたくなり、3日目には殺意がわくのだから。そう。母は、認知症の症状が激しすぎる人だった。叫ぶ、排泄したものを散らかす、人を罵る。

若い頃の母は、仕事ができる人だった。会社から表彰されたことだって何度もある。娘として誇らしい母だった。そして、いつも母に褒めて欲しかった。喜ばせたかった。愛していた。恐れていた。

施設の職員の皆さんには、感謝しかない。
「ありがとうございます。どうか、どうか、よろしくお願いします。」



実家で自分ひとりで過ごす時間を、少しでも心安らぐ時間にしたい。母が集めたわけのわからない趣味のものに囲まれて、時を過ごすにつれ、違和感が湧きあがる。次第に我慢がならなくなり、耐えきれなくなってきた。我慢する必要はある?

亡くなって10年も経っている父の服や靴、本や文房具、母が飾っている旅行土産品、仕事でもらった記念品、着なくなって20年は経っているコートやスーツ。引き出しの中から、押し入れの中から、生きているかのように、どんどん現れてくるのが怖くもあった。

どうするのこれ。誰が。

まだ母はこの世に生きている。生きている限りは、ここは母の家である。戻ってここで生活することはもうないにせよ、家の物は大切に思っているだろう。けどここでこうやって過ごしているのは、もはやわたしだけだ。これからもわたしひとりだ。

迷いの中にありながら、なんとかしなければと手をつけることにする。痛みを感じないように、できることから。
まず、地域のごみの曜日を手帳に書いた。すこしずつ、片付けて、捨てる。片付けて、捨てる。これは、気持ちがいい。なんて気持ちがいいのだろう。次第にスピードがアップしてゆく。捨てる快感と共に、罪悪感も消えてゆく。使えそうなものは、ジモティやメルカリに出してみた。
結構いい値で売れることを知った。

片付けに疲れたら、好きな食材を買ってきてゆっくりと料理を楽しんだ。母がいたら、食べてくれるだろうと思うと、涙が出てきた。けれどそれより、気兼ねなく台所を使える開放感の方が大きかった。

カフェに行ったり、買い物を楽しんだりもした。なんなら、施設に通うことより、楽しむ時間の方がずっと多いのだった。
母の施設にもっと顔を出すべきだろうか。いや、職員の人たちは、なぜか家族が頻繁に来ることを嫌がっているようにも感じられる。日々のルーティンが乱れたりするのかも。施設に預けたなら、信頼して任せる方がいいのかもしれない。
ならばわたしは、別荘暮らしを楽しむためだけに、大阪に来ているのか。新幹線代を使って毎月のように。こんな贅沢なことをしていていいのか。
迷いの気持ちは消えない。

ある時、母の見舞いを済ませたあと、梅田に出た。いつの間にかできていた新しいビル群の中を歩いていると、無印良品があった。よくある無印ではなくて、とても広いフロアに、外国のものや、アーティストの作品や、見たことのない素敵なものが置いてある。ここは、特別な無印なんだな、と思った。その一つ一つを見ていくうち、フワーっといい気分が広がった。

施設とのやりとり、母の体調のこと、家の片付け・・・・そんな重たいものが頭からすべて消えていた。心も、みるみる潤ってゆく。わたし、思ったよりがんばってたんだ。自分の喜びをずいぶん犠牲にしていたな。幸せに罪悪感を抱いたりして、ますます自分をいじめていた。もうやめよう。もう本当に全部ゆるそう。そうしないと、かわいそうだ。

「ここからは、楽しいことは全部やっていい。お母さんのことは、完全にプロに任せてしまっていいよ。見舞いの時間以外は、忘れてていいんだよ」

聞こえてくるその声は、真のわたしが出した答えだったんだと思う。
無印良品のカウンターには、気づいたら大量の雑貨が積み上がっていた。配送伝票を記入しながら、わたしはニコニコしていたと思う。
「実家を最高に可愛くするぞ」
それはめくるめく楽しさの始まりであった。

母は苦しんでいないだろうか。
実際のところ、母が苦しんでいるかどうかなんて、誰にもわからない。認知症で叫んで怒っていたって、転んで血を流していたって、もしかしたらこれまでの人生のストレスを全て吐き出して、やりたい放題やって、楽しいのかもしれない。


あの日から3年が経ち、実家は、誰が見てもわたしの家に見えるほどに変わった。そして今、最後の実家を楽しんでいる。昨年、母が亡くなったのでこの家を手放すことになったからだ。

母の持ち物のうち、わたしも好きだった物、そして3年かけて少しずつ好みに変えていった生活用品たち。それらが作り上げるハーモニーは、母とわたしの共同作品だ。完成したときに、終焉を迎えることになった。


東京と大阪。ふたつの家を行ったり来たりした3年間。母とわたしは別々に暮らしていたけれど、ふりかえると実は、同じ時を過ごし、一緒になにかを成し遂げたように思う。



まもなくこの家は、母のものでもなく、わたしのものでもなくなる。もちろん亡き父のものでもないし、兄弟が集まることもなくなる。
隣近所の家も、何千回も通った見慣れた路地も、もう帰ってくることもないのだろう。小学校も、商店街も、行きつけのスーパーも、見ることもないだろう。最寄駅に降り立っても、もうホッとする家は存在しない。
それを思うと、どんなにここを愛していたか、今さらながらに気づいて、うろたえる。

だけど、わたしは心のどこかで知ってる。実家にはいつでも戻れることを。
目をつむればそこに、いつも実家はある。台所には母がいて、ダイニングテーブルには新聞を広げた父がいる。野球帽をかぶった弟がいて、テレビが鳴っている。自分の部屋もあるけれど、見えるのはその狭いダイニングの景色だ。ずっとここにいたいと思う。



そこにはいつでも家族がいる。

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