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「葬式消滅」島田裕巳著〜脳卒中で片麻痺リハビリ中

2022年7月49歳の時に脳卒中で倒れ入院、1週間後めでたく50歳に。
後遺症で右片麻痺になり7ヶ月のリハビリ入院。12月noteをはじめ、2003年2月に退院。現在は通所リハビリ継続中。これまでの経緯と入院闘病記はこちら↓


葬式消滅-お墓も戒名もいらない-

49歳、終活を考え始めた矢先それは起こった

自分の「終活」について考えたことがありますか?
わたしが考え始めたのは今から5年ほど前、40代も後半に差し掛かった頃のことでした。

両親は健在だし、当時はふたりともまだ60代後半。自分もすこぶる健康(だと思っていた)で、両親の年代ですら終活なんて早いと思われるかもしれません。

きっかけは実家の建て替えでした。詳細は割愛しますが、その話から両親の相続についてFPさんに相談することになり、わたしもいずれは老後についてちゃんと考えなきゃなあと思い始めたのがきっかけです。

数年後の49歳の時、「終活」を知るため「終活アドバイザー」「終活カウンセラー」の資格も取り、引越しのタイミングだったので断捨離を行いました。そして引っ越しから5ヶ月。だいぶ落ち着いたし、そろそろ色々と終活について考えようと思った矢先、それは起こりました。

仕事帰りの電車のホーム、何の前触れもなくいきなり倒れたのです。

脳出血を経験しリアルになった死にじまい

倒れた状況と病気については、入院中この記事に書いた通りです。

「人はいつ死ぬかわからない。」「明日死んでもかまわない生き方をしよう。」14歳の頃からそう思って生きてきたので、生き方としてはあの時ジ・エンドでも後悔はなかったと今でも思っています。
実際、全く痛い思いもしなかったしね笑

ただあのまま死んでいたら、死後に残されたあれこれや、わたしの遺志なども全くわからないまま、家族には大変な思いをさせたことでしょう。

仕事は?契約関係は?お葬式は?埋葬は?…誰に連絡すればいいかわからない、パスワードがわからない、途方に暮れていたに違いありません。

今回たまたま死ななかったけど、死んでもおかしくない経験をし、どこか他人事だった現実を目の前に突きつけられる形となりました。

まずはずっと懸念していた「葬式とお墓どうする問題」に取り組もうと考え、この本を読み始めました。

また同時に自分の埋葬場所を考えるために、各業者から資料などを取り寄せました。そもそもお墓に入るつもりはなかったけど、遺骨はその辺に放置してもらうわけにもいかないもんね笑

業者に資料請求し送られてきたパンフやチラシ

お葬式って必要ですか?という疑問

前々から「お葬式なんて必要ないんじゃね?」と考えていたわたし。

思えば小さい頃から身内(おじいちゃんやおばあちゃん)が亡くなれば、仏教式やキリスト教式の葬儀に参列し(父方の祖母だけキリスト教信者だった)、当たり前のようにお彼岸や正月には墓参りに行き、○回忌法要で手を合わせ…。

いろんなお付き合いで、身内以外のお葬式にも幾度となく参列し、正直みな似たり寄ったりであまり疑問に思いませんでした。でもいざ自分に当てはめてみると、めちゃくちゃ違和感ありまくり汗

だってわたしは仏教徒ではないし、小学校の頃からカトリック系の学校に通っていたけどキリスト教徒でもない。プロテスタントの祖母に連れられ、日曜礼拝や修養会なんかにも参加していたけど、全く響かず。

昨年脳卒中という大病もしたし、後遺症で障害を負うという経験もしたけど、宗教に対する考え方は変わりませんでした。それがこれからの人生、死の間際になっていきなり信心深くなるとも思えません。

なのに、死んだ時に縁もゆかりもないお坊さんや牧師さんに来てもらうのもおかしな話。やはり宗教絡みのいわゆる「葬儀」は必要ありません。

(写真はイメージです)

ビジネスとして発展してきた葬式

この本では、これまで日本で一般的に行われてきた葬式が、どのような歴史を辿ってきたのか、そしてコロナ禍でどのように変貌を遂げつつあるのか、宗教学者の視点から詳しく説明してあります。

葬式が死者の供養のために行われるようになったのであれば、それは信仰上大きな意味を持ったことになります。ところが、そうではなく、宗派の経営のために導入されたのです。他の宗派がそれを採用したのも、葬式を担うことが、金銭を稼ぎ出す手段としてもっとも有効だと判断されたからでしょう。

「葬式消滅」より

元をたどれば曹洞宗で禅の修行道場を維持するために開発されたのが、今日の葬式の始まりで、あたりまえですが「ビジネス」なのです。

江戸時代に入り寺請制度によって庶民にも強要され、近代になり制度が廃止されても「先祖の霊を成仏させる」仏教式の葬儀は依然として受け継がれました。

ビジネスであること自体は格別問題のないところです。(中略)
しかし、葬式の必要性が説かれるときには、ビジネスである面は隠され、宗教的、あるいは精神的な意義が強調されることがほとんどです。

「葬式消滅」より

例えば日本にしかない「戒名」という制度。これは名前のランクによって戒名料が違います。しかも生前の行いに関係なく、高い戒名料さえ払えば格の高い戒名がもらえる。

まさにビジネスというにふさわしい制度だと思いませんか??

死生観の変容

平均寿命は年々伸び、今や日本はかつてない高齢化社会を迎えています。

高齢になってからの葬儀は、身内だけで葬儀を済ませる「家族葬」がだいぶ増えました。ここ数年は新型コロナの影響で家族葬はすっかり定着し、一般葬は特別な場合でなければ行われなくなりました。

最近では葬式そのものを行わない、いわゆる「直葬」も増えているそうです。取り寄せたパンフレットには、一般装から直葬まで、それぞれのプランによって葬儀の規模や含まれていることやもの、そして参加人数の目安など書かれていますが、わたしは自分の時には「直葬」でいいと思っています。

葬式という儀式自体に意味を見出せないですし、死者とのお別れの時間を〜とか、心の整理を〜とか、それは残された人たちの問題であって、亡くなった人を弔うことは儀式ではなく、あくまでも「気持ち」だと思うので。

この「葬式消滅」を読んで、前々から持っていた疑念が解消し、生前に葬儀をどうするか決められてよかったと思います。

「先祖代々の墓」はどうする問題

これもわたしが倒れる前から決めていたことですが「先祖代々の墓には入らない」ということ。お墓に入れば、その先も代々お墓の管理が必要です。

両親ともに東京生まれでお墓も東京にあり、わたしはよく両親に連れられてお墓参りに行きましたが、この先も同じように子どもたちやその先の世代に負担をかけたくありません。

わたしは「墓じまい」を考えていましたが、それは両親が亡くなった後だろうなと思っていました。また本来長男である弟が決めることですし。自分は宗派不問の合同墓を探し、生前契約をするつもりでした。

ところが先日突然、両親が「墓じまい」の手続きをしていると聞き、大変驚きました。さらには海の近くの「樹木葬」を考えており、見学に行くと。
今は墓じまいの手続きのため、あちこち母が奔走してくれており、本当にありがたい限りです。

弔う気持ちや感謝の気持ちは、本来かたちのあるものではありません。儀式や墓といったものにこだわる必要は全くないと思います。

葬式や墓はいらない。そう考える人はきっとわたしだけじゃないし、この先も増えていくのではないでしょうか。

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