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分裂した心を癒すには、統合ではなく、もともと一つであることを思い出すだけ


キリスト教用語で書かれてあるがゆえに、私たちがつい勘違いしてしまうこと

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)とは何か?

簡潔に言うならば、コースはキリスト教用語で書かれた一元論のスピリチュアリティだといえます。

ときに、コースがキリスト教用語で書かれてあるがゆえに、どうしても馴染めないという方もおられます。

実際に、そういう方々を私もたくさん見てきました。

ただ言えるのは、一元論のスピリチュアリティを学んでこの世界の夢から目覚めようという気があるのであれば、そういう理由でコースを学ばないというのは何ともばかばかしいことだと言わざるを得ないということです。

私たちの内側では何かと理由をつけてコースを学ばないようにと、その精神力動が常に働いているのだということを知っておかなければなりません。

だからといって、絶対にコースを学ばなければならないというわけでもありません。

ただ、コースに興味を抱くということ自体が、本当の幸せや本当の自由というものをコースに求めているということは確かなわけです。

そうであるならば、コースを学ぶ価値はあると言うことができます。

仮にもし、キリスト教に対する抵抗があるとするならば、むしろ、そのことをテーマに自分の内側を見ていく必要があるといえます。

実際に、コースの実践では自分の内側を見ることをしていくわけです。

そうするとき、本当の幸せや本当の自由へと心が開かれていくことになるのです。

そのようにして、コースが教えていることの理解が深まっていくにつれて、コースはキリスト教でいう『聖書』とはまったく異なることを教えているということが明らかになっていきます。

加えていえば、コースは『聖書』が教えていることの訂正として口述されたものであることが分かっていきます。

つまり、聖書が教えていることとコースが教えていることは、互いにまったく相容れないものであるということです。

コースが教えていることの理解が深まっていくとそういうことが分かってくるわけです。

であるにもかかわらず、実際は、コース学習者の多くが、そういうことの理解にまで及んでいないケースがほとんどだといえます。

ようするに、聖書の内容とコースの内容を混同して、(その二つの内容はまったく異なるものであるにもかかわらず、)コースを学んでいるケースがほとんどだということです。

その分かりやすい典型的なパターンが、「聖書のイエス」と「コースのイエス」を混同するというケースです。

コースの学習者の私たちが覚えておかなければならないのは、コースのイエスとはあくまでも私たちの正しい心の部分の象徴としてシンボル化したもの(象徴)にしかすぎないということです。

コースのイエスと聖書のイエスとを混同していまうならば、コースがキリスト教の教えと何ら変わらない二元性のスピリチュアリティと化してしまうことになります。

そのようなことが実際にコース学習者の中で起こっているわけで、言い換えるならば、それほどまでにコースの教えを真に理解するというのは、そう容易いものではないと言うことができるでしょう。

コースの教えを真に理解しないかぎり、「聖書のイエス」「聖書の聖霊」「聖書の神」といったものを、コースのイエス、聖霊、神と混同してしまうのは仕方ないのかもしれません。


そのようなコース学習者の方々にとって正しくコースの教えを理解していくその橋渡しになればと思うこともあって、以下に、聖霊(ホーリースピリット)について述べてみようと思います。


聖霊とは、自我に対する訂正の機能である

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