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果たして神は私たちを裁いたりするだろうか?


『聖書』の神と『奇跡のコース/奇跡講座』の神とを混同しないこと

ときに、コース(奇跡のコース/奇跡講座)学習者の中で、コースの教えと聖書の教えとを混同して、それらを同じ教えだと捉えてコースを学んでいるケースがあったりします。

なにせ、コース(奇跡のコース/奇跡講座)はキリスト教用語で書かれているということもあり、とくにコースの教えをよく理解していない段階においてはいとも簡単に聖書の教えと混同してしまうことがよくあります。

ただし、コースが教えている内容を理解するようになるならば、コースの教えと聖書の教えはまったくちがうものだと分かるようになります。

むしろ、それらは互いに真逆のことを教えているとさえ言うことができます。

それというのも、そもそもが聖書が教えていることの訂正としてコースは口述されたものであるわけで、コースが聖書とは真逆の教えなのは当然といえば当然のことなのだといえます。

ですから、敬虔なクリスチャン(キリスト教徒)にとっては、コースはまるで悪魔の教えを説いている本だと捉えられてしまっても仕方のないわけです。
(実際に、そのようにコースを批判しているクリスチャンを多く見ます。)

では、その両者の教えはどこがどうちがうのか?

というなら、

その代表的なものが、『聖書』の神と『奇跡のコース/奇跡講座』の神とはまったく異なるということです。

聖書では、

「神は私たちの父であり、この世界を創造した創造主である」
というふうに教えられています。

それに対して、奇跡のコース/奇跡講座では、

「神はこの世界を創造しなかったし、神はこの世界とは一切関係ない」
というふうに述べられており、

それらはまったく異なる考え方(教え)であるということが分かるはずです。

ですから、ワプニック博士はコースを学んでいる生徒に対してこのように助言しています。

「聖書の神とコースの神を混同しないでください」と。

それが何を意味するのか?というなら、

もし『聖書』の神と『奇跡のコース/奇跡講座』の神とを混同してコースを学んでいるとしたなら、コースの教えている内容をまったく理解していないということであり、コースを歪曲しているということです。

それは聖書の「神」に限ったことではありません。

他の宗教や、さまざまなスピリチュアリティにおける「神」や「神々」も、奇跡のコース/奇跡講座の「神」と混同しないように注意すべきだということです。

もう一度申しますが、コース学習者である私たちが「神」と呼ぶとき、その「神」はこの世界を創造しなかったし、この世界のことや、そしてこの世界にいる私たちのことは一切関係ないのだということを覚えておきましょう。


果たして神は私たちを裁いたりするだろうか?

上記で述べた通り、「聖書の神」と「コースでいう神」とを混同しないようにすることがコースを学んでいく上で大切なのだということです。

コースでいうところの神とは、「一元の神=ワンネス」のことです。

一方、聖書でいうところの神は、まさに「二元性の神」と言うことができます。

ようするに、「二元性の神」と「一元の神=ワンネス」とを混同しないということです。

それは「聖書の神」にかぎったことではなく、他の神話などに出てくる神(神々)も、そのほとんどが「二元性の神」であるということが分かるはずです。

そして、それらの神(神々)について考察するならば、人間である私たちと、まるでその性質がとても似ていることが分かります。

それがどういうことか?というなら、

つまりは、「二元性の神」というものは、人間の私たちが勝手にイメージ(想像)で作り出したものだということです。

もっと正確にいうなら、私たちは(ニセモノの)神を想像(イメージ)で作り出して、そのイメージを投影しているということです。

言い換えるなら、二元性の思考体系、つまり、自我の思考体系と同一化した私たちの心を外側に投影して(二元性の)神を作り出したというわけです。

二元性の世界の中にいる私たちが呼んでいる「神」とは、そういうものであり、そのわかりやすい象徴こそが、『聖書』の神なわけです。

その(二元性の)神は、私たち人間と同じように、裁きますし、処罰します。

ときには愛したり、ときには愛さなかったり、自分に従う者は愛し、自分に従わないならば罰します。

その姿はまるで人間の私たちがしていることとそっくりです。

『聖書』の神はそうであるわけですが、

まともに考えても、それは完全無欠で慈愛に満ちた神と呼ぶには疑問を抱かざるを得ません。

果たして、愛であるはずの神がそんなことをするでしょうか?

誰かを愛して誰かを愛さない、というようなことを神はするでしょか?

まともに考えるなら、本当の神はそんなことはしないと誰であっても分かるというものです。

ただし、私たちは二元性の思考体系、つまり、自我の思考体系と同化してしまっていて、そういうことがまともに考えられない状態になっているといえます。

でも、コースが教えている内容を理解するようになるならば、私たちが信じていた(二元性の)神は自分たちがでっち上げた虚像にしかすぎなかったということが認識できるようになっていきます。

いわゆる、正気の思考体系の見方、考え方を次第に思い出していくようになるということです。

そのために私たちはコースを学んでいるということです。

自分たちが信じていた神はまさに偽りの神だった、と認識していくならば、それによって、私たちは本当の神を真剣に求めるようになっていきます。

本当の神のもとに帰りたい、本当のわが家に帰りたい、というモチベーションが高まっていくことになります。

そのようにしてコースは、私たちがこの世界の夢から目覚めていくためのモチベーションを高めることを促してくれています。

重要なのは、

今の自分がいかに正気(の思考体系)ではなく、狂気であるか!

を認識していくことです。

そして、

裁いたりするような神を自分たちの神だと信じているその無知さ、愚かさを認識していくことです。

神は私たちを裁いたりするのでしょうか?

裁いたりするような神が、本当の神であり得るのでしょうか?

裁いているのも、裁かれているのも、他の誰でもなく自分なのだと自覚してくことです。

その自分とは誰なのか?

コースは、私たちの本性(真のアイデンティティー)を思い出していくための道を示してくれている霊性の道だと言うことができましょう。


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