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本を通して自分と向き合う①-私は何を持っているか-

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活字を読む余裕のない人生

私は、自分の意志で読書をしたことがない。学校の課題や、他人に言われて初めて本に触れ、仕方がないから読んだ。本を買う習慣はなく、買って読むのは漫画本だけだった。
そもそも、今までの私には好奇心というものがなく、興味がある分野が何なのかわかっていなかった。日々をしのぐだけで、なんとか生存するだけで精いっぱいだったからだ。この感覚を信頼できる人に打ち明けたことがあるが、全く理解されなかった。それ以来、その気持ちを他人に打ち明けるのをやめた。

30歳を過ぎ、会社を休職した。休職して半年が過ぎた。職場に復帰したいという気持ちは起こらないが、たくさん睡眠をとって、好きなものを食べて、散歩をして日々の移ろいを眺め、欲求を満たすうちに、少しずつ執筆をする余裕が出てきた。執筆をするということは、人に文章を読んでもらうこと。これを機に、出版されている本を読んで、人に読んでもらう文章とは何かを学ぶ必要があると思った。今まで、趣味で文章を書き散らすことはあったが、あくまでそれは自分の備忘録的な役割で完結していた。私にとっては孤独が当たり前で、他者の評価に振り回されるくらいならこれでいいと思っていた。しかし、実際に読み手がいて、評価をくれる現状が非常にありがたいと感じる。今は、大きな一歩を踏み出してよかったと思う。


自分の意志で、人生で初めての図書館へ

この地域に住んで10年以上になるが、初めて図書館に足を踏み入れた。紙とインクの匂いがして心地よかった。図書館は宝の山に見えた。情報がありすぎて、いろんな本に目移りしてしまった。しばらく図書館をウロウロしながら、「自分は今どんな情報がほしいのか」と考えた。このとき、本を一冊借りるにも、しっかりと頭を使って情報を取捨選択する必要があるのかと気付いた。今の私にとっては重労働だが、やるしかないと腹をくくった。

私は、ティーン向けの文庫本が並ぶコーナーに向かった。読書初心者ということと、10代のうちに身に着けておくべき一般的な教養が不足していることから、わかりやすく書かれている本がいいと思ったからだ。

私はその中から、岩波ジュニア新書の「悩みとつきあおう:串崎真志著」という本を選んだ。なぜなら、私の人生は悩みであふれているからだ。どうせ、これからの人生も悩みで尽きないことはわかりきっている。それならば、悩みとうまく共存し、振り回されずにコントロールして生きていくのがいいと思った。

少し話が逸れるが、私はあらゆるものに境界線を引くのが苦手だった。家族や友人、先生やクラスメイトが不機嫌であれば私のせい、誰かが困っていれば介入してケアしてあげなければ気が済まない質だった。また、誰に対しても、見返りを求めずにあれこれ世話を焼いた。これも異常な家庭環境から習得したものだと思う。今考えれば異常である。過保護なまでの愛情表現は、自分がそこにいることをを認めてほしかったのだろう。この性質のせいで、私は気苦労と悩みが多く、他人に搾取されることが多かった。私は周囲の人にとって「友達ではないけど親切で都合のいい人」になり続けていた。その体験は非常に孤独でつらいものだった。その当時の私の周りには、テイカー、モラハラ気質の人しかいなかったと思う。

話を戻す。要は、私は自分以外の問題を抱えすぎていた。「悩まなくてもいいこと」を捨てたかった。そして、「向き合うべき悩み」と適度に付き合い、「自分を支える基盤」をつくりたいと思った。


自分を支えるもの

この本の中に「自尊心」に言及されている箇所があった。言い換えれば、「自分は生きている価値のある人間」で、その価値はどこを基盤としているのか、という話だ。そして、この話題に関連付けて「人は何にに支えられているか」に関するアンケート結果が掲載されていた。このアンケート結果を参考にして、私は自分の持っているもの、持っていないものを分類する。

<持っているもの>
趣味(執筆、音楽鑑賞)、時間、財産(休職前までの貯金)、自然の景色を感じられる感覚、過去の経験(つらかったこと、苦しかった思い出)、自分の中の子供

<持っていないもの>
頼れる家族、現在の自分の軸、将来の夢(使命感・責任感・可能性)、能力(業務遂行能力、人間としての魅力)、身体的健康、自分の居場所、他者から認められること

<持っていたけどなくなったもの>
趣味を続ける意欲・集中力(絵を描く、ピアノを弾く、作曲をする、美術館に行く、動物園に行く、水族館に行く、映画館に行く、カフェに行く、漫画を読む、ゲームをする)、清潔感(引きこもりに伴う運動不足、ヘアケアやボディケアを怠ったことで見た目が悪くなった)、社会性(引きこもりに伴う昼夜逆転の生活、会話のしかたがわからなくなった、体力がなくなった)

このアンケート結果を見て、私には持っていないものが多いのだなと感じた。一方で、同じくらい持っているものも見つかった。そして、「こんな当たり前のことも自信にしていいのか」と気付くことができた。

例えば、現在も続けられている趣味は今の私にとって命綱といってもいいと思う。執筆においては、このような場を借りて、自分の考えをアウトプットすることができる。自分の考えを曝け出せることは、ストレスの低減に繋がる。さらに、考えを言語化するに伴い、自分とじっくり向き合い、自分の知らなかった自分と出会える。ほんのわずかではあるが、自分の成長を感じられる。それだけではなく、noteには記事を読んでくれる人がたくさんいる。そんな人々が忙しい日常の合間を縫って私の記事に目を通してくれたことに、本当に頭が上がらない。現実でうまくやってこれなかった私は人との繋がりを怖がっていたが、スキを押してくれたりコメントをもらうことで心が弾んだ。これが、自分が他人に認められ、居場所を見つけられる第一歩になればいいと思う。

持っているものの中に、過去の経験(つらかったこと、苦しかった思い出)という項目がある。これは、なければない方がよいと思っていた。しかし、本を読んでみると、この体験が精神的成長をもたらしたと捉えることもできると感じた。「この体験を乗り越えたのだから、この先も乗り越えていける」という考え方を持てると思ったのだ。私はずっと過去に囚われていて、きっと未来もこの低空飛行を続けていくのだとばかり考えていた。当時私に与えられていた環境下では人を選ぶことは難しかった。大学生までは家族と離れることもできなかった。自分から「家族と離れるための決断」もできなかった。しかし、それはもう終わってしまったことである。私はこれをわかっていなかった。終わったことは変えられないが、これからは変えていける。つまり、自分が一緒にいたいと思う人を選んで付き合っていけるのだ。そう考えると気が楽になった。ただ、職場ではそれもままならない。現に、私は職場で嫌われないように無理をして周囲に合わせてきたし、振られた仕事はすべて断れなかった。だから、双極性障害を発症して休職せざるを得なくなってしまったのだと思う。この経験を踏まえて、次に仕事をするときは社会規範を逸脱しないよう周囲の様子を注意深く観察しつつも、ドライな人間関係に留めておくつもりだ。そもそも、会社勤めが向いていない可能性も大いにあるので、そのための人生設計も考えておかないといけない。

ずいぶん長々と書いてしまったため、今回の記事はここで区切ることにする。次の記事にて、自分の中の子供、持っていないもの、持っていたけどなくなったものについて言及していこうと思う。

私はカウンセリングでも多弁であると診断されていた。分析や説明に熱中すると、ついつい言葉が増えてしまう。今後は、要点を絞って読み手に伝えられるように文章のそぎ落とし方も学んでいこうと思う。


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