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「デリカシーのない人は嫌」はダメ?

「想像力のない人だな~」
「なんでそんな言い方するんだろ」
「その一言余計だわ・・・」

誰かと話していて、不用意な言葉にモヤモヤしたり、イライラしたりすることが結構ある私。そして、そうなると距離を置いたり、関わりを断ってしまう。

それを「自分軸思考の追求」だ、これでいいんだと思って、この1年強過ごしてきた。

と言いながら、実は大変恥ずかしいことに、私もそういう発言で相手を不快な気分にしてきた人間である。

中学生のときクラスメイトに、「ちょっと人を馬鹿にしすぎ」と言われたことがある。
面白いと思って、つい調子に乗って言ってしまったことや、良かれと思って言ったことが全く逆効果で、相手を傷つける発言だった、ということがたまにあった。

なんか、ずれた人間だったなという記憶がある。
ちなみに、私の父もそんな感じである。

26歳のとき、「私、めちゃくちゃ空気の読めない失礼な奴じゃん!」と気づき、徐々に神経質すぎるくらい気を付けるようになっていった。

きっかけは忘れてしまったのだが、たぶん、KYな発言をすることで、居心地が悪くなる経験が積み重なって、やっと気づいたのが26歳だったんだと思う。我ながら遅い。

つまり、人を不快にする発言をしないようになったのは、相手のためではなく、自分自身を守るためだったかもしれない。

そんな私は、“デリカシーのある側の人間”ぶって生きてきて10年以上経ったのだが、今、そんな自分と向き合わざるを得ない、新たな局面を迎えている。

今月から受講している、さわらぎ寛子さんの講座「言葉で仕事をつくる塾コトシゴ」。
ご本人にお会いしたせいか、受講前に比べ、よりさわらぎさんの投稿に注目するようになっているし、内容もさらに響く。

数日前、まるで、バケツの水を頭からかけられたかのような気分になった記事。

私が「こんなふうに言われて嫌だった」と思うのは、自分を被害者ポジションに置いてるから…だと…⁈

悔しいけれど、そうかもしれないと思うことが次々と思い出された。

1年前、近所のママ友が、「明日駐車場を貸してくれないかな?」と言ってきたことがあった。どうしたの?と聞いたが、理由をなかなか言わず、結局、友達が2人遊びに来るから、と聞いて、その頼み方がセコいなと思った。

そのママ友に対して、それ以前から「他人を利用しようとするところがある人だな」と感じていたので、「私を利用しようとしてる」と嫌悪感を抱き、ごめんと断った。

このときも「利用される」と思いさえしなければ、別にいいよ、と貸せたんだろうか。

いまだに、あのときどうするのが、どう考えるのがよかったのか、わからないままだ。
私の性格の課題でもある気がして、ずっとしこりが残っている。

また、最近引っ越してしまったお友達から、
「引っ越し先は、夢心地かと思うほど最高の場所です。〇〇(私が今住む地域)に未練なし!ごめん!笑」
というLINEが来て、夢心地ってことだけ言えばいいのに、最後の一言余計だわ、イラつくわと思った。

でも、そこにイラつくってことは、私が今自分の住む場所に不満を感じている、ってことなんだろうか。もしや、彼女はそれを浮き彫りにしてくれようとしたのだろうか?

いや…そうは言ってもだ。
やっぱり、私は、極力相手をイラっとさせることは言いたくないし、言われたくない。
私の不満を浮き彫りにするとしても、そんな言い方じゃない方がありがたい。

だけど。
それにしても。
私は、
「何か言われてネガティブになる自分」が当たり前になっていないだろうか。
そんな自分を不必要に作り上げてしまってはいないだろうか。

一体どうしたら自分を「被害者ポジション」に置かないで済むのだろう?

きっと、何を言われてもいいや、気にしない、という諦めやスルースキルがあれば最強なんだろうな。

その諦めやスルースキルを手に入れるためには、人のことなんてどうでもいいくらい、何かに夢中になるしかないんじゃないか。

そうだ、それしかなさそうだ。

変わりたいとき、成長するときは、とっても悔しい気持ちや、「違う!そんなはずない!」と認めたくないような、泣き叫びたい感覚で、苦しいもの。

20年ほど前に経験したことがあるのだが、それ以来の感覚を、今味わっている。

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