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江戸時代の移動式コンビニ!天ぷら、すしを誕生させた屋台文化とは?食文化史に詳しい飯野亮一さんに聞きました。

 徳川家康が江戸に幕府を開いたのは慶長8(1603)年。全国の大名を招集して江戸城の大改修を行うと、江戸は将軍の城下町として急速に発展し、8代将軍吉宗の享保年間(1716~36年)には人口が100万人を超えました。うち半数が武士で、半数が町人。大名、旗本、御家人とそれらに仕える者など、武士人口の多くは男性です。町人も、男女比はおよそ2対1。全国から出稼ぎ人や奉公人などが集まった江戸は、単身男性が多く暮らす町でした。

江戸時代の移動式コンビニ

 そのような中「振り売り」が活況を見せます。振り売りとは、物を担いだり提げたりして売り歩く商売のこと。わずかな資金で誰もができる仕事であるため、幕府開府直後から、その数が増え続けました。

鮨売り『守貞謾稿 巻 之六』(喜田川守貞、1853年)より国立国会図書館蔵
豆腐売り『守貞謾稿 巻 之六』(喜田川守貞、1853年)より国立国会図書館蔵
初鰹売り『守貞謾稿 巻 之六』(喜田川守貞、1853年)より国立国会図書館蔵

 それを抑制するための鑑札制度が設けられた時期もありましたが、結局は失敗に終わり、ありとあらゆる振り売りが朝から晩まで町を巡っていました。

 衣・食・生活必需品・嗜好品など、ほとんどの物は振り売りから買うことができました。まさに移動式コンビニといった感じでしょうか。単身男性のみならず、江戸で暮らす人々にとってはたいへん便利な存在でした。

屋台出現、大盛況!

 屋台は、振り売りからやや遅れて出現します。喜多村筠庭(いんてい)著『筠庭雑考』(1843年)によると「家台(=屋台)みせといえるものは、安永(1772~81年)はじめごろ出来しならむ」。

四文屋(しもんや)や天麩羅(てんぷら)の屋台。四文屋は今でいうワンコインショップ。 串に刺したイモや豆腐などを煮て、1串4文(四文銭1枚)で売っていた。『近世職人尽絵詞』(鍬形蕙斎、19世紀)より 東京国立博物館蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

 隅田川河口近くの中洲(埋立地)の繁栄を記録した『中洲雀(なかずすずめ)』(1777年)には「商人居並んで通り狭く、煮売・煮肴・綿飴・玉子焼・胡麻揚(=天ぷら)・西瓜の立売(=切り売り)・桃・真桑瓜・餅菓子・干菓子の家台見世には、買喰の族 蟻の如くに集り、食物過ては腹を下し、食傷の種を求む」と、中洲に現れた屋台店に多くの人が群がっている様子が描写されています。

 その後、こうした屋台店が至る所に出現するようになり、江戸に屋台文化が花開きます。中でも特に数を増やしたのが天ぷら、すし、そばの屋台です。上方・江戸の風俗を記した喜田川守貞(もりさだ)著『守貞謾稿(まんこう)』「巻之六 生業」(1853年)には次のように書かれていま
す。
 「江戸にては、やたいみせと云いて、はなはだ多し。屋躰見世、すゑみせにて、不要の時は他に移す。屋躰見世は鮓(すし)、天麩羅を専らとす。その他皆食物の店のみなり。粗酒肴を売るもあり。菓子・餡餅等にもあれども、鮓、天麩羅の屋躰見世は、夜行繁き所には毎町各三、四ケあり」
 屋台は江戸のファストフード店で、早い・安い・うまいが身上。客層は職人や駕籠(かご)かき、車引き、商家や武家の奉公人などが中心でした。

天ぷら・すし・そばの屋台

 天ぷらは、四文銭一枚のワンコインで食べられることで人気を得、屋台の数を増やしていきました。火災の心配があるため、家を構えての居見世(店)はまだなく、屋台でしか買えないメニューでした。
 立ち食いでは、串揚げの天ぷらを、置かれた丼鉢の中の天つゆにつけ、大根おろしをのせて食すのが江戸っ子スタイル。テイクアウトも可能で、竹皮に包んでもらい持ち帰り、酒の肴やご飯のおかずにする客も多くいました。

 すし屋台では、当初は一口大に切った押しずしが売られていましたが、文政10(1827)年頃、その場で握って食べさせる者が現れると話題となり、握りずしの屋台が激増します。当時のすしは現在よりもシャリが多めで、1貫8文または16文でした。握りずしの人気はすさまじく、押しずしを売っていた従来の居見世のすし屋でも握りずしを商うようになり、江戸ですしといえば握りずしを指すようになっていきました。

 そばの屋台もまた数多く存在しました。しかしそば屋台が、天ぷらやすしの屋台と大きく違うのは、それが担ぎ屋台であったことです。そば売りは屋台を担いで移動し、町の路傍などに荷を下ろして商売していました。1杯16文。営業はほとんど夜間のみで、夜そば売りはやがて「夜鷹そば」や、風鈴を鳴らして歩くから「風鈴そば」と呼ばれるようになります。江戸市内はもとより江戸近郊に至るまで、晴雨にかかわらず、町々を売り歩いていました。

 時代が進むにつれ、いずれの屋台も消えていきましたが、天ぷら、すし、そばを生み育てた江戸の屋台文化がもたらした影響は、日本食を語る上でたいへん大きなものといえるでしょう。

話:飯野亮一さん(いいの・りょういち)
食文化史研究家。服部栄養専門学校理事・講師。早稲田大学第二文学部英文学専攻卒業。明治大学文学部史学地理学科卒業。著書に『居酒屋の誕生』『すし 天ぷら 蕎麦 鰻』『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』『晩酌の誕生』、共著に『江戸の料理と食生活』『郷土史大辞典』『歴史学事典』『調理用語辞典』など。

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