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家さえなければ、人間ってどんなに楽だろうと時々思う。 ~人は家に何を求めてきたのでしょうか

さまざまな家とそこに住む人々を調査研究してきた建築人類学者の佐藤浩司先生に「家」について話を聞きました。(エース2021年秋号特集「すまいのかたち」より)

 世の中にはとてつもなく厳しい環境に住まいを構えている人たちがいますよね。氷上とか山岳地帯とか。海上の家船なんかもそう。風土に適した家といえばその通りですが、「なぜ?」 と思う。家さえなければ、今もこれからも苦労を背負い込まなくて済むんじゃないか。 「家さえなければ、人間ってどんなに楽だろう」 と時々思います。

農耕民と狩猟採集民の家

 インドネシアには200を超える民族がいて、農耕民はどの民族も個性的な家をつくり上げているのですが、どこへ調査に行っても、屋根裏には入れてくれない。屋根裏は家の中で最も神聖な場所で、一部の特別な人以外は触れることが許されない禁忌の空間なのです。そして屋内は昼でも薄暗く、ほこりっぽい。ちっとも快適でない。
 彼らにとっての家は、人間が住むためにつくられているわけじゃないのです。家の主は、屋根裏に潜む精霊や祖霊たちで、人間はその下を間借りしているようなもの。そこでは人々の生きる目的がとても明確です。何かというと、自分が祖先になること。結婚して、子どもを産んで、自分が死んだら跡取りの子どもたちに自分の霊を守ってもらうこと。そうやって祖先の霊を家の中で守ってきたからこそ、同じ土地で家を維持し続けることができたんですね。

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インドネシア・ニアス島の首長の家:棟木の近くにはかつて、天上神に捧げる無数の頭蓋骨が吊り下げられていた。1990年

 一方、狩猟採集民の家はまったく違います。ボルネオの熱帯雨林で調査したプナンという狩猟採集民の家の中には、祖先や霊魂のいる場所がありません。禁忌の空間もない。そして非日常の出来事が住まいの中で起こることを丁寧に避けていて、例えば出産は、産屋を設けるか、その余裕がないときは家の床下で行います。家族の誰かが死ぬと、遺骸を家屋や森の中に放置し、荷物をまとめて集落全体が速やかに移動します。彼らの家は、正真正銘この世に生きている人間のためだけの住処(すみか)なのです。

日本人と終の住処

 現代人の多くは都市に住むサラリーマンですから、基本的には移動の民です。にもかかわらず、私たち日本人は、何となく家が永遠に続くと考えて、どこか定住民のような感性で暮らしています。家を買ったら、子や孫の代までそこに住むつもりでいるんです。
 日本人が家に執着するのは、 「終(つい)の住処」 が家だと思っているからではないでしょうか。韓国では都市生活者が頻繁に引越しし気軽に動いています。彼らにとって終の住処は、都会の家ではなく田舎の墓なので、死ぬときも、物理的な家はまあどうでもいい。
 そうして韓国の都市に住む人たちは移動の民として矛盾のない生き方ができている。前述のインドネシアの農耕民を見て分かるように、本当に終の住処となる家は祖先を守ることで成立しますから、苦労も多いし快適じゃないんです。

完結なき単身生活者の家

 家の原点は、複数の人間が共存するもの。歴史から見ると、現代のワンルームマンションのように、家が個人化、私物化していく現象はかつてなかったことです。以前、隅田川沿いのホームレスの家を調べたことがありますが、彼らの中には、進んでそこで暮らしている若い人や外国人もいました。都会のボヘミアンみたいな感じで。
 自分自身のために生きられる単身生活を可能にした社会は素晴らしい。ただ単身生活者の背後には、それを支えている、実家のような、何らかの共同で住む家の存在が必ずあるのではないでしょうか。
 その上で初めて独り身の自由な空間が営まれているのだとすると、つかの間の享楽を味わっているだけ。親の介護に直面したり、自身が年をとったりすると、旧態依然の家に回帰してしまう。それでは人間の家としては完結していないと思います。

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隅田川沿いのホームレスの家:1998年の東京・隅田川公園。当時は数百棟のブルーシートハウスが立ち並んでいた。

空間が家族をつくる

 今のネット社会では、人は離れていても関係を築けます。同じ空間にいるから親密な関係だとはもはやいえません。物理的な空間と人間関係が一致しなくなっているのです。住宅と家族もそうで、空間を共有するだけで、運命共同体みたいな感覚を押し付けるから、生きにくくなる。一緒に住む家族は空間共同体であって、愛の共同体ではないと捉えた方が関係は長続きすると
思います。
 あまり濃密でない人間関係をいかに築いていくか。そこを考えないと、同じ空間の中では暮らせなくなります。ストレスなく共同生活を行うには、部屋はある程度独立していたほうが住みやすいでしょう。個別化しながら、共同性を育める場所もある、下宿屋のようなイメージが浮かびます。これからは、家族が住まいをつくるのではなく、住宅という空間が家族的な人間関
係をつくり出していくと考えた方がいいのです。
 「空間が家族をつくる」 。インドネシアの都市で見掛けた段ボールの屋根の下に住まうホームレスたちは、血のつながりがあるのかないのか分かりませんが、彼らは明らかに“家族”であると私には思えました。

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インドネシア・スラバヤのホームレスたち:段ボールの屋根の下に身を寄せ合う。1989年

写真=佐藤浩司

佐藤浩司さん(さとう・こうじ)
1954年東京生まれ。89年東京大学大学院工学系研究科博士課程単位修得退学。89年から2019年まで国立民族学博物館勤務。工学修士、一級建築士。専門は建築史、建築人類学。主な著書に『シリーズ建築人類学《世界の住まいを読む》全4巻』『2002年ソウルスタイル 李さん一家の素顔のくらし』『2002年ソウルスタイルその後 普通の生活』『ブリコラージュ・アート・ナウ 日常の冒険者たち』など。http://www.sumai.org

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