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孤独であることを受け入れる

神社へのお参りとはまた違って、年に一度高野山へ参拝しに行ってます。昔は春と秋の2回でしたがこの状況下なので夏に一度だけ。

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初めて訪れた時にお世話になった宿坊のお寺がとても気に入ってしまい、最期はそこに位牌なり何なり納めてもらおうと勝手に決めているくらいなのですが、そこに1年の御祈祷をお願いするのも含めての高野山参拝です。

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初めて来たとき、奥の院の凛とした空気に圧倒されそうになりました。でもそのおかげであちこち向いてる心のベクトルが少しずつ同じ方向を向くような感覚になり、中の橋に戻ってきたときにとても心穏やかになっていることに気づいたのです。

歩みを進める中で、深層心理なのか潜在意識なのかはわかりませんが、多分いろんなことを思い巡らし、ひとつひとつ整理したんだろうなと。自分の中で何をどう結論づけたのか言語化はできないけれど、モヤっとしていた感覚が同じことを思ってもモヤっとしなくなったのです。

わたしはそこまで神仏信仰の厚い人間ではありません。ただ、気の持ちようだったり考え方だったり、真理をついていることが多いです。ふと立ち止まって考える。自分よがりになっていないかとか、誰かや何かのせいにしていないかとか。

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高野山は空海が開いた地として有名です。その空海の教えが「身密・口密・意密」の三密です。
詳細はここでは書きませんが、このご時世叫ばれているほうの三密にもとても役立つものですので、よろしければググってください(笑)

このあたりを今一度思い返す場の高野山。だいたいいつも一人で行くことが多いのですが、一人で訪れ空海の教えをなぞると、不思議と「人間は孤独である」ことを受け入れられ、誰かに何かを期待するということがスッとなくなります。

「誰かに何かを期待しない」と書くと非常に冷たい印象を受けますが、そういうことではありません。
例えば、わかりやすいところだと誰かに何かをする場合見返りを求めないということ。

「わたしはあなたに対してこう思っているのだから、あなたもわたしに対して同じように思って欲しい」というのも見返りを求めていることになります。それがある以上、何かしら期待してしまう。そして相手から思ったような見返りがないとなると、悲しくなったり辛くなったり怒ったり寂しくなったりするのです。

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口に出して伝えたり言われたりしたことは多分ないのですが、パートナーとわたしの間では「相手に期待しない」というベースが同じような気がしています。所詮他人だし、人は人を操れないから。

結果、人は生まれる時も死ぬ時も孤独である、この真実を受け入れると、必然と心穏やかになり、全ての相手の行動に対して尊敬や感謝が生まれる。相手に見返りを求めない奉仕ができる。

瀬戸内寂聴さんのこちらの本にもそこかしこにそういった言葉が出てきます。結構ずっしりと響きます。

わたしもそこまで思えるようになるまでは、なんだか道のりはとても長かったし、同じような相手に出会えているからこそ、心穏やかでいられるとも思っているので。

時々忘れぬようにするのにちょうどいい高野山参拝。これからも続けていくと思います。

追伸:
今年はちゃんと縁結びの金剛三昧院にもお礼参りできました。去年の今頃はまだわからなかったからお参りはしたけどまだご祈願だった。今年はきちんと。

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