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DNAの旅「繋がっているんだ、あの家と」

若い頃、(10代や20代のころ)は自分がここに存在しているというのが、どちらかというと不思議な感覚だった。
子どもを持つようになってからは、不思議な感覚プラス何らかの「必然性」も少しずつ感じるようになってきた。
自分が親になってから、自分の親、そしてそのまた親と繋がってきている何かを感覚として感じるようになった。DNAといってしまえばそれまでのことだけど。

というわけで、自分のルーツを少し振り返ろうと思う。本当は遥か昔まで繋がっているのだろうけど、記憶を辿れるのは実際に会ったことのある祖父祖母の代。まずは、父方の祖父母の家について記憶を辿る。

祖父母が亡くなったのはもうかれこれ30年以上前。だから、記憶のすべてはかなり古びている。だけど、その一つ一つは子どもの頃の私には強烈すぎて他の何とも混じらずに、しっかりと焼きついている。

毎年2回くらいの帰省。父の実家があるのは滋賀のはずれの小さな町だ。保守的な香りがするいわゆる日本の田舎町で、祖父はどうやら異彩を放っていたようだ(記憶が曖昧なので、以下「~ようだ」「~らしい」「~だったと思う」略)。

当時父の実家は銭湯と新聞の販売店を経営していた。経営といっても、玄関の隣が銭湯、その奥が販売店という自営の家だった。そして、それらを切り盛りしていたのはすべて祖母だった。

そう大きくない玄関、昔ながらの格子戸の脇に「新日野新聞」という看板が上がっている。子どもの頃は全く気づかなかったその看板は、祖父が創刊した地元紙の名前だった。そういえば、祖父の手元に万年筆と原稿用紙が転がっていた景色が、かすかに浮かぶ。

玄関を入ってずんずん歩いていくと薄暗い二間続きの座敷がある。座敷を上がった所には、何故かトラの毛皮が大の字で出迎え。いわゆるお金持ちの家にある趣味の悪いアレである。私は、薄暗い畳の上に横たわるトラの毛皮を子ども心にどう位置づけてよいかわからず、すすすっとトラを踏まぬように横をすり抜けるように歩いていた。

座敷には幾つもの動物の剥製(はくせい)もあった。鹿の首、鷲(鷹?)、はやぶさなどなど。実は、祖父は鉄砲打ちの名人で、剥製たちは過去に仕留めてきた父の獲物たちというわけだ。子どもの私には剥製がひたすら怖くて、できるだけ見ないようにしていた。

長屋のような細長いつくりの家で、銭湯と店舗のある母屋と、奥に離れがあった。その間に庭があったが、それがまた不可思議。
池が二つ。鯉がぎっしり。いたるところに盆栽(おそらく今思えばかなりの名人級)。銭湯裏と繋がっていて、お湯を沸かす沢山の材木。その横に、出番のない猟犬。
極めつけは奥にあった檻?のようなスペースにキジと孔雀。孔雀はワシントン条約には引っかからないのか・・・嘘のようで、本当に生きた孔雀がいた。近づくと威嚇して羽をひろげる。

そんな、珍動物園のような庭をぬけた奥の座敷に、祖父はいつも鎮座していた。そう、「鎮座」という言葉がぴったりで、私の記憶のかぎり、祖父は用を足すとき以外は全くそこを動かなかった。
別に寝たきりという訳ではなかったが、昼間から上気した顔と明らかなアルコール臭で、「動く気のない人」なんだなと子ども心に理解していた。

私たちは帰省すると、まずその部屋に行って祖父に挨拶をする。酔っているのか、照れ屋なのかほとんどこっちを見ずに、「よくきたな」と迎えてくれた。そして、子どもの私も祖父を直視できずにいた。

仙人のようなヒゲと薄くなって手入れ無く逆立った髪。そして、いつも前のはだけた和服の寝巻き。酔っているが目つきは鋭い。老いたボス猿のような雰囲気だ。アル中の老いたボス猿と会話できる小学生はそういないだろう。ボス猿は付けっぱなしのテレビをみながら大声でテレビに向かって文句を言っている。そう、ボス猿は喋ると横山やすしになった。だから、小学生の私でも、その毒舌に思わずふきだすなんてことが多々あった。

祖父は、しゃべりながらテンポよく「ウイスキーの空瓶に入った」日本酒をグラスに注ぎ、飲んでは注ぎ、瓶が空になると、「おい、酒もってこい」。すると、祖母が一升瓶を持ってきて、空瓶に日本酒を補給する。だったら、一升瓶をそばに置いておけばいいじゃないかと思うが、おそらく酩酊状態で一升瓶は重すぎて扱えなかったのではないか。だから、軽めのウイスキーの瓶が祖父の日本酒入れになっていた。

祖母は「おい」と呼ばれると、何をおいても祖父のところへ飛んでいった。「おい」から到着までほんの数秒。台所に残った包丁が、たくあんを半分(一切れの半分)切ったところで止まっていた。私や母なら、当然最後までたくあんを切ってから「何?」と台所から聞き返すだろうに。明治の女はすごいな、と思う。

家業も、そして家事もすべて祖母がこなしていた。だったら、祖父は何をしていたのか。

「飲んでいた」。

だけなら、祖母はたくあんを少なくとも一切れの最後まで位は切ってから飛んでいったのではないだろうか。

祖父は学歴は今で言う小学校卒。地主の長男だったから、そんなに苦労はしていないにせよ、戦中戦後の怪しいシゴトは多々こなしていたという。とある縁で「日本労働運動の祖」と呼ばれる八木信一氏と出会ってから、少しずつ人としてまともな道をあゆみ始める。この、「八木信一」氏の伝記があるのだが、そこに記述されている祖父がすごい。

「黒々とした髪はオールバック。丸めがねに、真っ黒のシャツ。釣り、鉄砲が名人級。話は面白いが、鳥を骨までバリバリ食べ、大酒をくらうその風体はまるで『野猿』のよう」。「八木信一伝 娘の見た労働運動」八木鞆子著より

ほうら、やっぱり「猿」。

その猿が八木氏を慕い、そばで働くようになった。そして、その養女であった才色兼備の若かりし祖母を見事射止めることになる。これはさすがに八木氏を含めかなりのブーイングだったらしいが、周りの反対を押し切って二人は結婚した。かなりの大恋愛だったそうだ。

その後、祖父は政治家活動をはじめ、村長になり、県会議員にも当選。その後いくつかの政治的挫折と共に資産であった地元の山々を手放していく。望み破れ、地元の町で「公衆衛生」とばかりにその町初めての銭湯を経営。しかし、日々は酒、酒、酒。そして、唯一のシゴトが新聞の執筆、つまり「新日野新聞」の発行である。

新聞といっても、自分で創刊した地元紙で、泥臭い町政の話と、町の下世話な話題。到底金儲けにはならないが、町ではそこそこの購読率だった。好き勝手、辛口、アンド下ネタ好きの新聞にコアな読者がいたと、後に聞いた。

まあ、晩年はだらだらしたものだったろうが、座敷から動かないフットワークの悪さにしては来客が多かった。皆、手に酒と肴をぶらさげてやってくる。もはや、地元の有力者でも何でもないただの老いどれのボス猿と何を話していたのか、楽しそうな笑い声がいつも響いていた。

その裏で、老体に鞭打って働きっぱなしの祖母。この明治女が祖父を全面的に支えていたのは確か。ちゃぶ台ひっくり返し、祖母の髪つかんではり倒し、今のDVどころではない、とんでもない亭主関白だった。

父の手元に晩年の祖父母の唯一ともいえる白黒写真が残っている。なんとも仲良く寄り添って、しかもしっかり手を握っている。写真馴れしていない世代のくせに、作った感じがしない。それが、すべてを物語っている。かっこいいぞ、明治男と女。

その間に生まれた5人の子ども(その一人が私の父)、そして、不思議の館のような、祖父の趣味満載の家。切りかけのたくあん。集まる人たちの熱気。私の記憶の中では、それらがごちゃまぜになって、到底ぼんやりとなんてせずに、湯気の立ったまま焼きついている。恐ろしくパワフルな家。ときどき、記憶のなかでタイムトリップすると、そのなんともいえない「逞しさ」が私に力をくれる。

繋がってるんだ。あの家と。

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