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マザー・グースの夜

 静かな夜。僕はいつものようにお気に入りのバイオリンを手に、街はずれにある小高い丘へと向かう。ピン、と張りつめた冷気が辺りに充ち、僕は、からだを大きくぶるっと震わせる。一つとして明かりのついた家はなく、それらはただその場にうずくまって、再び朝がやってくるのをじっと待ち続けている。見上げれば、煌めく満天の星。その一つ一つのかけらが次から次へと落っこちてきては、僕の額や頬にぶつかる。僕はそれをやわらかく払い除けながら、夜道を急ぐ。
 月が出ている。真夜中の月。その上を、雌牛が、音も立てず黙々と何度も何度も飛び越えている。遠くの方で、どこの家の子だろう、小さな犬がそれを見て大笑いしている。笑い続ける仔犬。静まり返った街に、その声だけがこだまする。

 丘のてっぺんに辿りついた僕は、一つあくびをする。眠い。しかし僕は気を取り直し、バイオリンの調律をはじめる。僕は毎晩この丘にやってきて、一人バイオリンを弾いているのだ———月や、星や、夜が、この世界から消えて無くなってしまわないように。
 バイオリンを弾きはじめる。澄んだ音色が、夜に吸い込まれていく。暗闇に脅えながら眠る人たちに届くよう、僕は一心に祈り、弾く。
 ふと、遠くの草むらの小道を、フォークがひとり、とぼとぼと歩いてゆくのに気がつく。
「フォークさん、フォークさん。こんな夜更けにお散歩では、風邪をお引きになりますよ。早くおうちに帰って、おやすみなさい」
「あら、———これはこれは猫さんではないですか。物思いに耽っていたらこんな所まで来てしまったようですわ……。毎晩のお勤め、ご苦労さまです」
「いえいえ、どういたしまして。———それよりどうなさったんですか? ご自分の歩く先も分からなくなるくらいお考えごとをなさるなんて。それにお顔色もよろしくないようですが」
「そうですか……。ええ、実は、わたくしの一人娘のスプーンが、先日、お皿さんと駆け落ちしてしまったんです……。ああ、いったい娘はどこへ連れ去られていったのでしょう。良家のグラスさんとの縁談がまとまり、あとは挙式の日取りを決めるだけでしたのに……。ああ、スプーン。わたくしはスプーンのことを思うと、悲しくてならないのです……」
「そうでしたか……。可愛らしいお嬢さんでしたのに。お気持ちをお察ししいたします」
「いえ、そんな、それには及びません。ありがとう。……なんだか、少ししゃべり過ぎてしまったようですわ。わたくし、もう少しこのあたりをぶらつこうと思いますので、それでは……」
「おやすみなさい。よい朝が、あなたに訪れますように……」

 夜は、すべてのものを飲み込み、更けてゆく。いったいどれだけの人に、夜は恐怖を与えてきただろう。いったいどれだけの人に、絶望を与えてきただろう。いったいどれだけの人が、この夜の下で夢を見てきたのだろう。
 僕は、バイオリンを弾く。すべての人の人生を、祈りながら。
 見上げれば、満天の星。降りしきる星のかけら。夜を照らす月の上を、雌牛が何度も何度も飛び越える。仔犬は、それを見て、いつまでも笑い続ける。いつまでも、いつまでも———。

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