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瞳に緑いろの反射のある目で。

「もうお帰りなさるの」と云って、おちゃらは純一の顔をじっと見ている。この女は目で笑うことの出来る女であった。瞳に緑いろの反射のある目で。


森鷗外の長編小説『青年』の「十七」、主人公が宴席でたまたま出会った、年若の芸者「おちゃら」が初めて純一に声をかけた場面です。

え~っ。またまた気になる女性の登場です。「目で笑うことの出来る」とか「瞳に緑色の反射のある目で」なんて。鷗外の描く女性の魅力的なこと。

『青年』にこれまで登場した、謎めいた未亡人の「坂井夫人」、下宿の隣家に住む娘「お雪」そして、年若の芸者「おちゃら」。それぞれ典型は違いますが、気になる(純一にとっても、私にとっても)女性が三人も。

ちょっと話がそれますが、鷗外の描く女性像、例えば『普請中』の「女」、『杯(さかずき)』の七人の少女たちと第八の娘、『舞姫』の「エリス」。

それぞれ『青年』における「坂井婦人」「お雪」「おちゃら」になぞらえようと試みましたが、しかし、そこに寄せきれない、より多様な女性像を読み取る必要があるかもしれません。

話がまた飛びますが、スタンダールの小説『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレル。お相手はレナ―ル夫人とマチルダのふたりでした。ハラハラ、ドキドキ、ものがたりの先が気になって気になって一気読みしたことを思い出します。

三人ともなれば、もっと先が気になるというものです。が、チラッと先読みした解説には、

この小説は叮嚀(ていねい)に、時間をかけてゆっくりと読まれることを要求している。(高橋義孝 昭和四十三年三月、ドイツ文学者)

とあるので、むやみに急ぐのはよくないようです。でなくても、この小説には、明治時代当時の風俗や文物だけではなく、フランス語が頻出しますので私には、早く読もうにも読めません。

嗚呼、ムズカシイ。

すべてフランス語には読みがルビで振られてありますが、意味までは本文に記されていません。ただし、巻末にフランス語の意味や、風俗や文物に至るまでの詳細な注解が付されていますので問題はありません。大丈夫です。※

純一は、うぶというか女性との交際経験がそれまでほとんどなかったせいか、ここまでは受け身で女性に接することが比較的多いのですが、結構モテるので不思議な気がします。

この『青年』の(壱(いち))にこんな描写がありました。

おちゃっぴいな小女(こおんな)の眼に映じたのは、色の白い、卵から孵(かえ)ったばかりの雛(ひよこ)のような目をしている青年である。

なのでか、であう女性がみな純一の顔を「じっと」見るのです。青年とは主人公純一のことです。「おちゃっぴいな小女」とは、文士、大石狷太郎(正宗白鳥がモデルか)の住まいのお手伝いの娘です。

無垢な目をした純一、じっと見られるほどに、どう反応していいのかわからず、相手の女性にうっすらとした敵意すら感じるのですが、もちろん本気の悪意はありません。

あちこち寄り道してすみませんが、ドイツ文学にいわゆる「教養小説」といわれるジャンルがあり、主人公が知識や経験を通じて内面的に成長していく過程を描くのです。

以前、ヘルマン・ヘッセの『知と愛』(ナルチスとゴルトムント)を新潮文庫で読んだのですが、高橋健二さんが解説を書いておられました。

トーマス・マンにこの作品をヘッセが献呈した際に、「この作品が終わるのが惜しくてゆっくり読んでいる」といった意味の内容の手紙をマンがヘッセに書き送ったそうです。

わたしも『知と愛』を読みながら似たような思いを味わった記憶があります。


この小説『青年』をできるだけゆっくり読んで喜びや楽しみを味わっていきたいと思います。


※新潮文庫 森鷗外著『青年』による



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