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『人間の建設』No.11 国を象徴する酒 №3
岡「よい批評家であるためには、詩人でなければならないというふうなことは言えますか」
小林「そうだと思います」
岡「本質は直感と情熱でしょう」
小林「そうだと思いますね」
岡「……つきるところ作品の批評も、直観し情熱を持つということが本質になりますね」
小林「勘が内容ですからね」
「日本酒」からはじまった話題。ここでは、岡さんが小林さんに批評家の資質について質問しています。
ここで、詩人とは、肩書きないしなりわいとしての詩人を言うのではなく、精神のあり方を言っているのだと思います。
に対して、小林さんが肯定しています。つまり小林さん自身も、詩人というわけではないが、その精神で以て仕事をしているということでしょう。
岡さんが、批評の本質について「直観と情熱」といっています。つまり、詩人というものの精神のあり方・態度が本質的にこの二語に集約される。
小林さんは、「勘」とも言っています。
批評と聞けば、論理や知識が根底にあると私は思っていましたが。それでは、批評ではなく解釈ということになるのでしょうか。
となると、批評とは対象となる作品の派生や付属ではなく「勘(直観)や情熱」をよりどころとして生成された、別の、独立した作品になっていなければならない、ということなのでしょう。
批評家としての自戒・姿勢というものを感じました。
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