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読書びより

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#数学

『人間の建設』No.50「近代数学と情緒」 №1〈三つの数学〉

 本書では「函数」表記していますが、私の場合をいえば学校で「関数」と習ったと記憶しています。実は、両方の表記が流通しており、片方の表記が誤りというわけではないようです。  過去から「どっちやねん論争」もあったようですが、ここでは本書に従い「函数」と記させていただきます。それで、数学には三つあって「幾何学」「代数学」「解析学」なんですね。  古代ギリシャのピタゴラスの幾何学が最も古くからあったように私はイメージしていましたが、正解は「解析学」だと。函数とは二つの数の関係を言

『人間の建設』No.50「近代数学と情緒」 №2〈「函数」のみらい〉

 小林さんが、函数の現状について岡さんに質問しました。それに対して岡さんは、複素数という数学の概念に関連づけて函数の発展について触れ、予言的なことも仰っていますね。数学史の類型から推測されたのでしょうか。  さて、数の概念がそれまでの実数の世界であったのを、虚数というものを導入して数を一般化しました。二乗して「-1」になる数を虚数「i」としたわけですね。高校時代、これを習って〈え”~〉と驚愕した記憶があります。  複素数というのは、実数と虚数の足し算で表しますが「コーシー

『人間の建設』No.49「はじめに言葉」 №4〈言葉のちから〉

 前段からの流れでこんどは岡さんから小林さんへ問いが発せられます。小林さんのような文学者であればなおさら、言葉こそが考えることの原点でしょうねと。  ところが、少し意外な答えを小林さんが述べるのです。「考えるというより言葉を探している」。そう言えば小林さんの著作に『考えるヒント』がありました。それを読み返せばここで仰ていることのヒントがあるのかも。 「文士はみんな、そういうやりかたをしているだろうと私は思いますがね」と小林さんは続けます。それくらいに言葉というものが文学者

『人間の建設』No.48 「はじめに言葉」 №3〈言葉と方程式〉

 私など素人が思うに、数学の論文などはほとんどが数式でところどころを文章でつないでいるという構図を想像します。ところが岡さんによればそれは違うということです。たいていが文であると。  論文と比較対象にはならないとはおもいますが、数学で身近な書物といえば学校時代の教科書。とはいっても、もう残っていないので確認しようもありませんし、どんな記述のあり方だったのか記憶も薄れています。  小林さんの抱くイメージも、私とその点では大差なかったかもしれません。それと、文とはいっても小説

『人間の建設』No.47 「はじめに言葉」 №2〈安心という目途〉

 岡さんが言った「家康の安心」とは、1600(慶長5)年の天下分け目の「関ヶ原の戦い」を制して征夷大将軍となり天下を統一した時のことをさしているのでしょうか。  小林さんや岡さんが言うようなことは数学に限らず、日常われわれもよく経験することのように思います。一つ解決すると、次の問題がでてくる。それがなんとか片付いたと思ったらまた、……。  だから、岡さんが言うように「無解決」ということもあり得るのだと。逆に問題が全部解決するとしたら、もう何もすることがなくなってしまいます

『人間の建設』No.45 「数学と詩の相似」 №2〈言葉と数〉

 ここで岡さんは、数学者と物理学者の立ち位置のちがいについて述べています。比較的わかりやすい説明と思います。同じ自然科学の分野でも数学と物理学ではこれほど違うものなのかという印象を受けます。  物理学が自然という対象の本質とは何かを追究していく。一方、数学は対象というものを規定せずに数学という抽象的な世界を探求していく。「リアリティ」対「抽象」の大いなる違いがあるように思われます。 「ないところへできていく」。数学とはこういうものだったのか、とあらためて認識させられた気が

『人間の建設』No.36 人間の生きかた №4〈数学者と小説〉

 おもしろいお話です。まず、「数学が壁に当たって、どうにも行き詰まる」と岡さんが言います。岡さんでも行き詰まることがあったんだということですね。  つぎに、そんなときに「好きな小説を読むのです」と岡さんが言います。へー、ドストエフスキーの『白痴』なんかを読むんだ、と今までの話の流れでそう思います。  小林さんも、岡さんが数学で行き詰まると言う話を聞いて意外な感じがしたようですね。  岡さんの次の言葉もおもしろい「行き詰まるから発見するのです」。そうか、とことん考えてそれ

『人間の建設』No.20 科学的知性の限界 №3

 話が前後しますが、前段で、ベルグソンとアインシュタインの衝突ということで会話がありました。時間の概念が、物理学と普通の人間とでは異なるという話でした。  小林さんが、いわば常識の言葉では翻訳不可能になってきた科学の進歩がどいうことなのかを岡さんに問います。  岡さんは、当時(1960年代)の数学の発展に関連して次のような話をします。  ここからさらに岡さんは言葉を継いでいくのですが、少し専門的な内容に踏み込まれていきますので、難解の度が深まります。(※1)  いずれ

『人間の建設』No.16 数学も個性を失う №4

 数学と個性ということについての対談が続きます。  現代(当時)の数学の世界が、概念に概念を積み重ねていく積木細工のようになっていてますます抽象的な度合いを深めている。  すると、一番下の積木から理解していかないと、天辺の積木のことがわからない。そして積木がますます高くなっているというのです。  数学を専門とする人が、大学、院と学んでもまだ時間が足りない。これではやっていけなくなる。「いまが限度だ‥‥‥もういっぺん考え直さなければいかぬ」と岡さんは言います。  数学にお

『人間の建設』No.15 数学も個性を失う №3

 小林さんが、前段の対話で出た、数学の個性という問題について、数学者岡さんの世界に対象を絞ってなお聞いていきます。  に対して、岡さんが「私の」「それしかない」と明確な言葉で返しています。数学こそ個性の発揮される世界だといわんばかりに。  私ごとですが、学校時代あまり数学が得意といえず、むしろ苦労した口です。このような凡人レベルでは個性も何もあったものではありませんね。  さて、そんな凡人読者にもわかりやすいように岡さん、もう少しかみ砕いて、詩の世界になぞらえわかりやすく

『人間の建設』No.14 数学も個性を失う №2

 岡さんがいう「内容のある抽象的な観念」とはどんなものなのか。  辞書によれば「抽象的」という言葉の意味は、多くのものの中から共通するものを抜き出し、一般化して考えることです。(肯定の意味合い)  もう一つの意味は、物事の実態や実際の姿から離れていて、具体性に欠けるというものです。(否定の意味合い)  つまり、言説や理論がものやことに沿っているかいないか、具体性に準拠しているかどうか。と考えれば少し見えてくるかもしれません。(※1)  抽象化の度合いが過ぎたり、抽象の上に

『人間の建設』No.13 数学も個性を失う №1

 絵や小説の個性、酒の個性から今度は、数学と個性の話題に移ります。 「数学の抽象化」とはどういうことかと小林さんが聞いたら「観念的」とまるで禅問答のように岡さんが答えます。に対して、小林さんが「わかりません」と、もう少しかみ砕いた、わかりやすい説明を岡さんに求めました。  数学の抽象化ということを、小林さんは、自分ではおそらく理解していたのかもしれません。でも、われわれ読者を置いてきぼりにしてはなるまいと、この言葉も持つ深い意味を理解できるよう、岡さんみずからの言葉での解説