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「ラディゲの死」/三島由紀夫

「ラディゲの死」。三島由紀夫の短編だと、知名度は「中の上」くらいか。
昭和三十年、三島由紀夫30歳の作品。
とても脆いガラス細工を思わせる作品である。三島由紀夫の繊細な部分、感受性が、「ラディゲ」という作家に託して語られている。

ラディゲは、もう知る人も少ないと思うが、かつて「神童」と名を馳せたフランスの作家である。筆者の中では女のサガン、男のラディゲと一緒くたにされている。

代表作は「肉体の悪魔」「ドルジェル伯の舞踏会」。筆者も詳しくないが、「肉体の悪魔」は一人称視点で少年期の心理が描かれ、逆に「ドルジェル伯の舞踏会」は複数の人間心理が重なり合い、誤解/理解を繰り返す―そんな小説だったと記憶している。
筆者は以前「ドニーズ」という彼の短編を扱ったが、大した記事でもないので読みたい人は時間を捨てる覚悟で読んで下さればいい。

作品数はこれでほとんどである。何しろラディゲは二十歳で死んでいる。石川啄木さえ二十六までは生きたのに。

※ここからは既読者でないとわかりにくい

「ラディゲの死」の文章についての細かい引用は避けたい。作品そのものが、「偽物の詩」なのだ。決して詩人そのものにはなれない三島由紀夫という「小説家」が、「ラディゲの死」を仲立ちに「詩人」のふりをしたような……

作品の中に外国の地名や固有名詞が数多く出てくる。
この効果は長野まゆみ氏や、初期の遠藤周作と萩尾望都両氏の作品にも見られる。
それは小さなSFなのだ、こことは別のどこか。フィクションのなかの異世界。

その小さな世界の持つ美しさに―「ラディゲの死」の美しさに―筆者はこころを惹かれる。しかし、これは二度繰り返せる小説ではない。その「美」の有限性には、また作者三島由紀夫も気が付いていた。
それは筆者が文章を引用しない理由だ。
その「美」が「他者」の介入に耐ええない、ということだろう。
「美」とはある秩序の代名詞である。書き殴ったクレヨンに「美」はない。花畑にはある。「美」とはそのままある秩序である。
だからこそ、秩序の外にあるものが介入してきただけで、「美」は崩れる。とても簡単に。

戦後の三島は壊れた「美」を、もう一度直そうとして、手のひらを傷だらけにしていた……どうにも三島を語ると私は過剰にセンチメンタルになる。
とにかく、萩尾望都、長野まゆみ両氏が好きな人なら「ラディゲの死」はきっとぐっとくるはず。もし読者のなかにいるなら、読んでくれると嬉しい。


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