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ロマンチックラブイデオロギーはなぜ駄目か

私は退屈な人間である。才能ある人間がひどく退屈なエッセイを書くことはある―その逆はない。
よってこの記事はどうあがいても退屈になることが決まっている。
もしよければこんな三文記事よりオーウェルの同時代エッセイ、あるいは三島由紀夫の文学批評を読んでほしい。

ロマンチックラブ・イデオロギーの定義から。適切な文献が見つからず、きちんとした裏付けのない記述だが本記事では「恋愛+結婚+出産を一セットとして男女の恋愛関係の成就と見なす認識」を指す。
ただ私がゼロから話すより、ここは村田沙耶香氏の一連の小説群を読むほうがいいはずだが。村田氏の作品はこのロマンチックラブイデオロギーを―言葉は悪いけど―「仮想敵」と置くと、その応答としてよく読める。

ここで先に(以下長いのでロ・イデオロギーと表記する)ロ・イデオロギーの問題を先に言おう。―この思想には人間の想像力を奪う側面がある。
ここで同様の問題を抱えた思想を二つ取り上げる。
一つはかつてのアメリカで黒人に対し猛威を振るった―「黒人は間抜けだが根は善良だ」。 
もう一つはかつての日本で(残念なことに現在もだ)猛威を振るっている―「英霊は国のため命を懸けて戦った」。
両思想の問題点はすぐに指摘できる。
つまり黒人は青年だろうが老人だろうが「間抜けだが根は善良」であり、英霊は甘党でも辛党でも「国のため命を懸けて戦った」のだ―これらの思想は人の持つ個人性を無視し、"属性"として消費する。
そこに想像力の割り込む余地はない。

ではロ・イデオロギーは人の個人性をどのように無視し、また消費するのか。ここで私は一人の作家の作風の変化を手がかりとして考えたい。村上春樹氏である。
彼の小説は大きく分けて
前期・人と深く関わらないクールな主人公、1980〜
中期・他者との関係のなかで苦しみながら気づきを得ていく主人公、1990〜
後期・他者との関係を軸に大きなシステムと戦う主人公、2000〜
と変遷をたどったと認識している。この記事で扱うのは後期作品、「海辺のカフカ」「1Q84」の二作。

どちらの作品でも共通するのは、「初恋」というモチーフの持つ重さだ。主人公は無意識・魂の暗闇を「初恋」を頼りに乗り越えていく。その優れた物語性からファンも多いと思う。
ただ、筆者はここから村上氏の作品についていけなくなった。

(1)まず、もっぱら人格の充分完成されない時期起こる初恋という現象を、ただ初めてというだけで特権化する語りへの違和感が消せなかった。
(2)私には氏のやり方は主人公たちの生の重みを初恋のプラトニックで一度に「チャラに」するように思えた。もしそうなら、それは作家のやり方としてフェアではないはず。
(3)また、成熟した人格の抱える問題を恋愛の領域だけで解決できるものだろうか?

そして最大の理由として、女性の存在が物語的な「消費材」として扱われているという感覚を拭えなかった。 
結局私には村上氏の作品で女性たちが「初恋」という要素を作品に取り込むための装置として扱われているように思えたのだ。

しかし物語が女性を意識的/無意識的に消費材として扱うのは村上氏にのみ当てはまる話ではない。
すでに松田青子氏がその作品「女が死ぬ」で鋭く指摘しているが、小説、映画、漫画を問わず表現の領域で女性という存在は極めて消費的に扱われてきた。
たとえば、「彼女の黒髪が風に揺れている」「先輩の抜けるような白い肌に目を奪われる」「彼女の指は強く握れば折れてしまいそうだ」……こうした表現に、生まれてから一度も触れたことのない人は(おそらく)いないはず。興味を持つ、持たないに関わらず、類似の表現は出版物に溢れている。
ここでは、女性をその身体的特徴から(もちろん女性→男性のケースもあるが)消費することに対する無感覚がある。
そしてこのような女性の扱いは物語と相性がいい。なぜなら物語には厳密な意味における個性が必要ないから。女性の特徴として、陽気なA娘、かわいいB娘、引っ込み思案のC娘―これだけいれば、それは物語の材料としてもう充分なのだ。(もちろん優れたフィクションほどこうした定型表現は避ける傾向がある)。
よって、ロ・イデオロギーは物語=消費物として世間に広まった。これが筆者の第一認識である。

ここから先の話は、男性向けハーレムアニメや女性向けジャニーズ・ドラマなど、ロ・イデオロギーの代弁者を念頭に聞いてほしい。
このとき、ロ・イデオロギーは人が純粋にその人個人であることを認めない―つまりその暴力性を最もあらわにするように筆者には思える。
彼女(彼)は〇〇な性格で、〇〇な外見で、僕(私)にだけ〇〇してくれて―ここでは私たちの個としての特徴が「恋愛」という物語の火付けとして使われる。そこで私たちは体長を測られる競り市のマグロのように恋愛という物差しによる私たちの全ての人格=個性のジャッジを強制される。
ここにロ・イデオロギーの最も非人間的な性格が現れている。つまり、人間の全ての人格を恋愛の二語に帰属させること。まるで恋愛をする人間にはどんな政治的主張も、あくまで個人的な趣味もないかのようだ。
そこから当然の帰結として、たとえば彼/彼女―夫/妻―父親/母親―といった性格は「決してその人の人格の一部を構成する要素ではなく」、「あたかもその人の全人格を規定するかのように」(少なくとも日本では)扱われる。
それは究極において現在の自民党の家族の価値を過剰に重んじる非理性的な態度にまでつながっているのではないか。

だから筆者は秋元康氏のプロデュースするアイドルの歌がテレビで流れること、ジャニーズや類似のタレントがドラマで主役を務めること、男女の「モテる」ことがステータスのように扱われること―その全てが本当に嫌だ。そのどれもが、人間に対する侮辱に思えるから。

それに抗う二つの短歌を載せておきたい。
「わたくしは少女ではなく土踏まず持たない夏の皇帝だった」飯田有子作
「早春のレモンに深くナイフ立つるをとめよ素睛らしき人生を得よ」葛原妙子作

(追記)同様に人を"属性“として消費する言葉として最近気になっているものに「老害」と「Z世代」がある。
たとえば(筆者の認識の範囲で)「老害」とは60代から70代、最近はそれより下の40代から50代でも適用されている「時代錯誤の認識を繰り返すろくでもない老いぼれ」くらいの意味を表す言葉だ。
ただ、今の60代について考えると彼らの親を含む、幼少期の教育を担当した人々の多くは大日本帝国下で育った世代だろう。そこで彼らの人格形成が歪んだ可能性はないか。
彼らもまた「日本国」という国家装置のなかで被害者であった認識が「老害」という言葉にはあまりに欠けていはしないか。
「Z世代」にも同様のことが言える。私も含めたこの層には奨学金返済に苦しむ人々がいる。自民党が与党である社会に希望を持てない人々がいる。彼らに対する想像力がこの言葉に含まれているだろうか?
また、「若者の政治離れ」とマスコミは連呼する。この世代が赤ん坊の頃から政治に興味を持っていなかったように。
それはある部分までは日本社会の手落ちではないのか?
社会という仕組みに参与しない人々がいるならまずその原因を調べ、それなりに対処するのは成熟した社会の持つ当然の責任のはずではないか。

私の時代への不安は何より、安直な属性によって人間を理解しようとする傾向、個人の背後にある国家・社会・時代といった背景への想像力が失われ、全てが個人の問題に帰されるこの傾向にある。 
最後に、これから世界は少しずつ良い方向に向かう―そう信じたい。男性にも女性にもLGBTQその他の人々にも。火星人にも金星人にも地底人にも天使にも悪魔にも。私にもあなたにも居心地の良い社会がやってくることを。

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