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ラディゲ/ドニーズ

いつでも、「記念碑的な」作品というものがある。
たとえばガルシア・マルケス「百年の孤独」がそうだし、日本なら田山花袋の「布団」(「百年の孤独」と比べるのも気の毒だが)などそうだろうか。

そうした作品が、しかし生き残るかというと話は別で、ときに古びた「記念碑」になり、あるときは生きた「魂」として残る。

ラディゲ―かつては「ラジィゲ」とも呼ばれたこの作家は、どうにも「記念碑」に属する気がするのだ。
筆者は堀辰雄/三島由紀夫両名が好きで、彼らともにラディゲから(ある一定の期間)影響を受けている。
好きな作家の好きな作家―これが実に難しい。
たとえば大江健三郎は好きでも中野重治の良さはわからない。中上健次は好きだがフォークナーはあらすじだけ調べて図書館に返した。

ということで肉体の悪魔/ドルジェル伯の舞踏会はずっと読まずに来たし多分それでいいと思うのだが、さる人が「ドニーズ」―この作品を勧めていて読んだ。

前置きばかり長い記事だ。誰だ、これを書いたのは。私だ。


おそらく文学賞の選考なら「才能は認めるが気取りが鼻につく」とでも書かれる作品ではないか。何しろ書き出しが「パリよ!」である。

ドニーズ―この「ロシア人の娘」は奇妙に男慣れしていて、「僕」は振り回される。
……もうこの先を読む気が読者諸氏においてなくなったのが目に見える、が、まあ聞いてくれ。
とにかくバタ臭いこの筋立てをカバーしているのは、三島由紀夫をして「盗賊」を書かせたその文章力だ。
「僕」は「彼女がもはや処女でなくなれば、彼女を情婦おんなにすることができるであろう」と考える。そしてドニーズに間男(というのもおかしいのだが)を差し向ける。

そしてついに「僕」の【ドニーズを情婦おんなにする計画】実行という段になって、ドニーズはこんな言葉を残して彼を袖にするのだ。
「《あたしはいびきなんかかく人嫌いです。ドニーズ》」
そしてこれが最後の一文。
「ところで僕がほんとに鼾をかくかどうか、僕には知るすべはあるまい。」

……多少気の利いた掌編。それが最大限好意的に見て下せる評価だろう。

ここから余談。
森鴎外は村上春樹に先んじて日本の作家/翻訳者の二足のわらじを履いた(そして成功した)人間だが、そのなかの

この会話劇をふと連想した。

そしてもう一つ。もう本当に全く何の関係もないのだが、村上春樹「アフターダーク」で「デニーズ」というレストランが出てくる。

単なるセブン&アイホールディングスが運営するファミレスなのだが、読んだ当時はエドワード・ホッパーの「ナイトホークス」

さながらのイメージで読んでいた(本来は無機質な、資本主義のもたらすコピー&ペースト的な場所のイメージが必要だったことは言うまでもない)。

なお「アフターダーク」には本文中にエドワード・ホッパーが出てくる。それも筆者の勘違いの理由だったかもしれない。

(蛇足)
村上氏の「アフターダーク」は文章の完成度においてかなり優れているにも関わらず話の焦点が今ひとつ見えてこない、「海辺のカフカ」から始まっ(てしまっ)たキャラクタライズな登場人物たちが浮いている……褒めるに難しく、貶すに難しい、何とも宙ぶらりんな作品である。とにかく雰囲気はいい。

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