三島由紀夫「婦徳」


婦徳

あらすじ。
①佐伯と顕子あきこは今夜、不義の恋を果たそうとしている。だが顕子は「私に操を破つたといふ幻影をまづ与えて」ほしいと要求し、佐伯はやむなく応じ一時間後に再び訪れることを約束する。
②顕子は「操を破つたといふ幻影」を自らに与えるため、部屋に不倫の証を人為的に残す。
③しかし夫が帰ってきてしまう。二人の逢瀬は破綻し、また夫も顕子によって人為的に作られた不貞の証拠―「落ちちらばつたヘア・ピン」やら「窓枠におちてゐる煙草の灰」やら―を見つけてしまう。
④夫は言う。
「顕子、おまへを信じる!」
だがこの言葉自体が、顕子を疑っている証明になるのは皮肉だ(本当に信じていたなら、わざわざ「信じる」など言わないだろう)。顕子はなぜ「信じる」なのか詰問する。
「さあ仰言つて!私を愛すると仰言つて!」(「愛する」に強調点)と叫び、話は終わる。

三人とも駄目だった

もし、もっと後年に本作が書かれていたなら徹底した喜劇になっていただろう。それほどに喜劇と隣接した悲劇が「婦徳」を動かしている。
そして、分かると思うが登場人物の三人とも、何らかの過ちを犯している。

佐伯の駄目だったところ

まず、佐伯はすごすご帰るべきではなかった。
「女(筆者注:顕子)の護ろうとしてゐるものが何だかわからない。それは果して貞淑なのか。」など考える暇があったなら、
「たとえば君ガサッと落葉すくふやうに私をさらって行ってはくれぬか」河野裕子
のスピリットで顕子を抱きしめ、夜の果てまで逃げればよかったのだ。

ということで、佐伯の失敗は彼の致命的なパトスの欠如にあったと筆者は断定する。

顕子の駄目だったところ

顕子も顕子である。「婦徳」だか何だか知らないが、
「……私は一人で目をさましたいの。目をさましてあたりを見まわすの。すると扇子が落ちてゐたり、薔薇がしをれてゐたり、椅子の背に青い夏帯が滝のやうに懸つてゐたりするの。(略)」
など理屈を捏ねる暇があるなら、とっとと佐伯とやることをやればいいのだ。

良人の駄目だったところ

これは顕子を疑ったのも悪いが、それから「(略)お前を信じる!」などと口走ったのもよくなかった。
疑うなら徹底すればよく、信じるなら愚鈍な夫を演じきればよかった。そのどちらにもなれなかった結果、彼は顕子の芝居を台なしにしてしまった。  

こうして三者三様ヘマをやらかした結果、誰も幸せにならない結末がやってきてしまったのである。

しかし、なぜ顕子はすぐ佐伯を受け入れなかったのか。
小説のなかに直接書かれてはいないが、ヘーゲルの言を持ち出せば多少は説明できるか―「英雄は二度現れる、一度目は悲劇、二度目は喜劇として」

確証はないが、顕子は怯えているのだ。
行為とは、それまで自分自身を構成してきた一切の内的なものを、生の一回性の下で外部に晒す個人的な悲劇にほかならない。
だから顕子は保険をかけようとした。たった一人きりの不貞―自らの内部で完結する安全な不貞―を行うことで、行為の取り返しのつかない一回性から逃げようとした……そんな仮説は成り立たないか。
だが、不幸にも顕子はヘーゲルを知らなかった。悲劇は二度は繰り返しえない。初めは「運命」と呼ばれ必然に帰される偶然が、次は剥き出しになって必然を壊す。

ということで本作の教訓である。
不倫をするならまずヘーゲルを読んでおこう。マルクスも読めばバッチグーである。

余談

それはそれとして、顕子の人為的に生み出す不貞の部屋には、何か不吉なものがある。(村上春樹氏の「ねじまき鳥クロニクル」のホテルを思い出してしまった)
そう、女性の一人部屋というのは何か妖しいものがある。
誰だかが「ガンダムとは男性の拡張された身体である」と言っていたが、たしかに我ら男性は肉体を武器や兵器や……暴力装置によって拡張する。野蛮極まりない。
では女性は、と考えるとたとえば部屋、あるいは庭―ひいては家や子どもなどがそれに当たるのではなかろうか。
確かに男性のように剥き出しの暴力は示さない・しかし静かに歪な力を孕む―女性たちの表に出すことを許されない支配欲を始めとする欲望の棲家として。
そんなことを考えた。女性諸氏には本論を杵と臼とで叩き潰してもらいたい。



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