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我が青春の作家たち

なんて気恥ずかしいタイトルだろう……。

先に言っておくと、梶井基次郎/堀辰雄の両名である。
そこにあるのは何もかもが未決定な、それから……

―止めよう。感想の名のもとにポエムを読まされる読者のことを考えると涙を禁じ得ない。
まあとにかく、何もかもが本当には起きないゆえにいくらでも夢が見られる、そんな世界観がこの両名にはある(気がする)。


昔、梶井基次郎「蒼穹」の、この文章にときめいた。

空にはながらく動かないでいるおおきな雲があった。その雲はその地球に面した側に藤紫色をした陰翳いんえいを持っていた。

共感が得られるか甚だしく疑問なのだが、この「その地球に面した側に」の言葉選びにときめくのだ。
なんというか、こう、「絶対お前普通に生きてたらこんなこと考えんやろ」という、過剰な感じがここにはある。それがいい。

誰だったか、「梶井基次郎は気取っててイヤ」なんてことを言っていたやつがいたが、すごく分かる。
でも、その「気取り」がいい。青春の傲慢。特権的な気取り。それは美しい―実に困ったことに。


翻訳者の柴田元幸氏が「この本読んでるやつキライ」(本当はもっとマイルドな言い方であります)と言っていたそのラインナップが面白い。

  1. 星の王子様

  2. 人間失格

  3. ライ麦畑で捕まえて

個人的にはここに「ノルウェイの森」と三島由紀夫作品全般を加えてもいい―一応言っておくが「作品」への文句ではなく、「作品が好きな人たち」への文句である。ニーチェとキリスト教の関係みたいなものだ。

そういう意味で言うなら、梶井基次郎/堀辰雄もだいぶ危ない。
「一発アウト」とまでは言わないが、「ちょっと臭う」。
「くんくん、おや、ここから文学青年の香ばしい匂いがするぞ」


ということで筆者におすすめの香水を1ダースほど贈ってくださると幸甚です。
それでも、これを読んでくれよ。

その夜私は提灯ちょうちんも持たないで闇の街道を歩いていた。それは途中にただ一軒の人家しかない、そしてその家のがちょうど戸の節穴から写る戸外の風景のように見えている、大きな闇のなかであった。街道へその家の燈が光を投げている。そのなかへ突然姿をあらわした人影があった。おそらくそれは私と同じように提灯を持たないで歩いていた村人だったのであろう。私は別にその人影を怪しいと思ったのではなかった。しかし私はなんということなくっと、その人影が闇のなかへ消えてゆくのを眺めていたのである。その人影は背に負った光をだんだん失いながら消えていった。網膜だけの感じになり、闇のなかの想像になり――ついにはその想像もふっつり断ち切れてしまった。そのとき私は『何処どこ』というもののない闇に微かな戦慄せんりつを感じた。その闇のなかへ同じような絶望的な順序で消えてゆく私自身を想像し、言い知れぬ恐怖と情熱を覚えたのである。――

 その記憶が私の心をかすめたとき、突然私は悟った。雲が湧き立っては消えてゆく空のなかにあったものは、見えない山のようなものでもなく、不思議なみさきのようなものでもなく、なんという虚無! 白日の闇が満ち充ちているのだということを。私の眼は一時に視力を弱めたかのように、私は大きな不幸を感じた。濃い藍色あいいろに煙りあがったこの季節の空は、そのとき、見れば見るほどただ闇としか私には感覚できなかったのである。

青空と闇が意識のなかで混ざるのだ……なんてことだろう。
―以上文学青年のたわごとをお送りしました―



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