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ババア☆レッスン(その3・君たちはどう親の葬式をあげるか)

 私は東北・山形県内の、ど田舎出身なのだが、私が子供の頃、昭和の時代は「葬式は自宅で」が普通だったようである。葬儀屋が出入りしてたような記憶はない。全て、近所の人や親戚総出で執り行ってた気がする。
 祖父母が死んだ時も、必ず近所の女衆が手伝いに駆けつけ、大量の葬式料理をこさえていた。しかも母方の実家では、弔問客一人一人に、旅館のごとくお膳に料理を並べてふるまってたのには、子供心にびっくりした。
男はホトケ様を前にして泣いたり酒飲んだり、女は忙しく台所と座敷を行き来する。子供は邪魔になるので、適当な所で遊んでろとほったらかされた。
 仏壇の前には、顔に白い布をかけた遺体が安置され、坊さんがお経を唱える。そしてその後、山の中にある掘っ建て小屋みたいな火葬場で、遺体を焼却していた。本当に、頭上でカラスがギャアギャア鳴いてるような、鬱蒼とした、心霊スポット的な場所だった・・・てか、あれ?遺体を入れた棺桶はどうやって運んだのさ?そこは霊柩車に来てもらってたのか?
ふと思い立ち、現在82歳になる父親に電話で聞いてみた所。
これがなかなかショーゲキ的な(?)話であった。
 父曰く、昔は村で死人が出ると、近くの大工さんが「がんばご作ってくれたんだよ!」だそうである。「がんばご」とは「棺箱」の事で(要するに棺、棺桶・東北訛りで言うとこうなる))それに遺体を納棺して火葬場まで「リヤカーに乗せて運んだ」そうである・・・リヤカーって。
 昭和49年?50年頃?父方の祖父が死んだ時もまだリヤカーだったらしいが、私は全然記憶にない。ちなみに父は火葬場の事を「焼き場」と呼ぶ。
 最近になって従兄弟の兄ちゃんから聞いたのだが、昔はその火葬場で焼いて、骨壷に入りきらなかった骨は、近くの川にザザザーっと捨ててたそうだ。当時はそのくらい雑だったようで、「その川で釣れた魚は絶対食うな」というのが暗黙の了解だったらしい。

 しかし、時代は変わってそんな田舎も、自宅で葬式はやらなくなった。
「セレモニーホール」と呼ばれる場所で葬式をあげるのが一般的になった。
一体、いつぐらいからだろう?父親曰く「昭和の終わりくらい?」という記憶であった。
 今思えば当時の自宅での葬式、あの大量の料理は全部手作りだったし、葬式に必要なもの、例えば葬式饅頭だの葬式用の花輪だのなんだの、一体誰が注文してたんだろう?自分達でやる事が多すぎである。
 しかしそれが、セレモニーホールの登場で一変。仕出し料理や花やら何やら、棺桶のチョイス、遺影の事など、めんどくさい事はホール側のスタッフが全てお膳立てしてくれる。喪主側はカタログを出されて「お花はこれ、料理はこれ」とか、選ぶだけでいい。
 個人的には、セレモニーホールの出現は「女の仕事をめちゃくちゃ楽にしてくれた」と思っている。なにしろ私の記憶の中では、当時の女は料理の準備や、弔問客のオッサン達にお酌して、後片付けも全部やらされてたようにしか見えなかったから。映画「悪魔の手毬唄」の葬式シーンそのまんま。
ああ、昭和は遠くなりにけり。
   
 てなわけで、昭和の男尊女卑トークは一旦置いといて。
昨年の年末、私の母が急死した。あまりに急死すぎたので、泣くとか以前に笑ってしまったほどだ。
 親戚からの連絡を受け、翌日すぐに新幹線で地元に戻った。
駅で親戚のおじさんが待ってたので、そのまま遺体が安置されてるセレモニーホールへと移動。
 現地では、母に先立たれた父親が「お地蔵さん」と化していた。
いや、お地蔵さんじゃ可愛すぎる。なんというかこう、もう何十年も放置された無縁仏の墓石みたいになっていた。呆然と固まって正座してる。これでは喪主として使い物にならない。いや、妻に急死されたんだからそりゃ分かるけど(でも側から見てて、そんな仲のいい夫婦には、ぜんっぜん見えなかったけどね、アナタ達)。
 そんなわけで、親父がそんなふうだから、葬式に関する細々した事は、親父抜きで、ホールの担当者、親戚のおじさんおばさん達が決めてる状態。
 本来ならば、私(54歳)と弟(50歳)が中心になって色々な事の手配をしなければならんのだが、いかんせん「喪主初心者はどう動けばいいのか」が、さっぱり分からない。というか、「全くあてにされてない」というのがヒシヒシと伝わってくる。地元に住んでないから「その土地の常識や風習があるのだろう」、そう思うとどうにも口を挟みにくい。
「仕出し弁当のグレードはこのくらいがいいだろう」とか「お花はもうちょっとあった方がいい」「地元の新聞に死亡の告知は出さないと」「香典返しの商品はこれ」「納棺師に渡すお金」「和尚へのお布施代」などなど、父親が「無縁仏の墓石化」してる間に話はどんどん進んでいくのだが・・・・・
最終的に、一体いくらお金がかかるのかがまるで見えないので、不安がどんどん募っていく。
 そんな中、時折父親が「葬式に、必要以上にお金をかけたくない。華美なふうにはしなくていい・・・・」とボソボソ口ごもるのだが。
しかし、その言葉に耳を傾ける親戚は誰一人いなかった(ちなみに私の弟はといえば、母親急死のショックでうつむいたまま、こちらも使い物にならない状態)。

 結局、今回の母の葬式は「フルコースだった」という印象だ。
最近では「人が集まるのが大変」という理由で、四十九日の法要を繰り上げ法要として、その時一緒に済ませてしまう事が多いそうだが、それもなかった(だからまた、その後、交通費かけて地元に戻るツラさよ)。
まぁ、繰り上げ法要の知識はなかったが、あったとしてそれを提案しても受け入れてもらえなかったろうなとは思う。だって「四十九日はすごく大事なんだ」って親戚のおじさんが言ってたし。
 後々、友人から聞いた話では「うちの叔母の時は、通夜は行わなかった」
「四十九日も繰り上げ」とか、「葬式には人を呼んだけど、四十九日は誰も呼ばずに済ました」など、そしてもっとすごいのになると「葬式すっ飛ばして、病院からスマホで火葬場の検索、日程抑えて即現場へ」などなど、現代に即した様々な執り行い方があるようである。それが親族とか地域に受け入れてもらえるかどうかは分からないけど。

 というわけで、今回のそんな「フルコースな葬式」・・・・式が終わって数日後。親戚のおじさんから請求書のメールが送られてきた。
その額、なんと約250万円。文字通り、目ん玉飛び出るかと思ったわ。
おじさんは特に、普通な感じにサラッとこの金額をメールしてきたけど、地元じゃこんな額は当たり前なのか?
 請求書の詳細には、通夜の晩に泊まった部屋の宿泊代もキッチリ入っていた。己の知らぬ間に、細かく細かくカネがかかるたんびに「チーン!チーン!チーン!!!」とレジの音が鳴り響いていたのだろう。
死んだ母親には申し訳ないが、請求された金額を見て、本当に私、膝からガックリ崩れ落ちた次第である(とはいえ、そのカネ払ったのはうちの父親だが。いや、父親もガックリ崩れ落ちてたようではある)。
 
 てなわけで、セレモニーホールのおかげで、昔に比べたら、喪主の負担は格段に減った、が。
気をしっかり持たないと、葬式代は天井知らずで、どんどんどんどん上がっていく。ともすりゃ「別に葬式代を払うわけでもない親戚」が、どんどん話を進めてく場合もある。何も分からないからと、全てを親戚に任せっきりにした私も悪いのだが。

「冠婚葬祭にかかるお金は、ザル勘定」
 
 今回つくづく思ったのだが、何故かお金に関してテキトーメンタルになってしまう、あの「冠婚葬祭マジック」。葬式だけでなく多分、結婚式もそうなのだろう、「せっかくだから」とか「これをやるのは常識でしょう」みたいな価値観で、どんどん財布の紐がゆるむ、ゆるまされる。

 過去に親の葬式で、初めて喪主を経験した方々は、一体どんなふうでしたか?私の今回の「初めての親の葬式」は、いい歳こいた大人が、親戚を前に手も足も出ない、というどうしようもない失敗パターンだったような気がする。本当に、54歳といういい大人のくせに。子供じゃないんだから、「葬式の執り行い方」について、少しでも知識を持ってればよかった。
「葬式」という項目の、ババア・レッスン。
 
 順番でいえば、次に来るであろう父の葬式は、ミニマリストのごとく「質素倹約葬」を遂行したいものである。

 というわけで、今回の曲はこちら。
東京キッドブラザース「健さん愛してる」。
寺山修司の映画「書を捨てよ街へ出よう」の中で朗々と歌われている。
この映画を観ると、この頃の東京はこうだったのか、と、何やらしょっぱせつない気持ちになる。そこへ持って「この当時のうちの実家の村では、まだ遺体搬送はリヤカー」という事実を知った上で聴くと、さらに、しょっぱせつなさ倍増である。
 寺山先生のご実家、青森での当時のお葬式って、どんなふうだったのだろう?


 

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