見出し画像

『戦場のメリークリスマス』/はたして人の内面とは(映画感想文)

『戦場のメリークリスマス』(83)を監督したとき、大島渚は50歳。
大戦下のジャワ島日本軍俘虜収容所が舞台だが、大島渚は戦後生まれである。原作は、英国軍人でもあったローレンス・ヴァン・デル・ポストの2編の短編小説で、実際にこの人物は連合軍の兵として日本軍の捕虜収容所に囚われていたことがある。
そのときのことをのちに日記で「収容所の暮らしで過酷なのは、半ば正気を失った、理性と人間性が半分暗闇に紛れている状態で生きている者たちが権力を握るなかに居続け、過度な緊張を強いられることだ」と振り返っている。ちなみに映画の原作とされる短編小説のタイトルは『影さす格子』と『種子を蒔く者』。
ヴァン・デル・ポストは著述家として、ジャーナリストとして名声を得るが、没後に「彼の述懐したことは本当に事実だったのか」「彼は誰もが考えているような聖人であり賢人であったのか」という疑念と議論が起こっている。

1942年。俘虜収容所を管理するハラ軍曹は粗暴な男だが、外国人捕虜との間で通訳を担う英国軍人ロレンスと奇妙な親交がある。
ロレンスが他の捕虜のことで「助けてほしい」と相談を持ち掛けると、ハラは「敵に助けてほしいという英国人は恥を知らない」といいながら、ロレンスの望みをかなえてやる。尊敬だろうか、親愛だろうか。このハラを演じるのがビートたけし。
ハラの上官のヨノイ大尉は潔癖で規律を重んじる軍人。英国陸軍少佐セリアズの軍事裁判に立ち会い、自分でも理解し難い感情を抱く。屈することなく英国人として、日本軍の有り様を非難するセリアズを他の日本軍人たちは疎ましく感じ早々に処刑するように命じるが、セリアズに興味を持ったヨノイは彼を収容所で引き取ることにする。このヨノイを演じるのが坂本龍一。セリアズがデヴィッド・ボウイ。
人を惹きつける力と屈しない矜持のようなものを全身から漂わせたセリアズが収容所に来てからの日々が中心に映画では描かれる。

戦時下の設定ながら戦闘シーンは一切ない。行き詰った物語が終盤で序破急を無理に作り上げ、不意の爆撃や襲撃が始まるのは常套手段、…というか作り手の捻りのなさの自白だが、この映画ではそんな陳腐なことは起こらない。にもかかわらず常に緊張感が満ち、次の場面でいったい何が起こるのか、予見ができない。
ここで重要なのが可視化された戦闘ではなく、見えない感情というものの相剋だからだ。優劣を競うものではない。同じひとりの人間のなかで、正しいのか・正しくないのか、…いやもっと抽象的だ。なぜ自分のなかにこのような感情が湧くのか、これは自身の意思なのか・そうでないのか、といった迷いや葛藤が、役者たちの顔やふるまいに浮かび上がるからだ。
それぞれの人物自身も、自分が何をするか判らない。観ている側には、もっと判らない。

もしこれが、ただ「何を考えているのか判らない」のなら、どこかで「ああ、こう思っていたんだんな」「結局そう決めたのか」と理解は着地するだろう。しかしこの映画はそうではない。
演出のスゴさなのか、役者たちの芝居の上手さなのかと問えば、後者でないのは明白だ。たけしも坂本龍一もこの映画で見せている演技はひどい。
しかしその下手な演技も含めてここでは映画としてのマジック、というか奇跡が起こっている。

状況の設定もまた巧みだ。
戦時下という時代、収容所という閉鎖的な空間、そして男ばかりが強制的に決められた枠組みのなかで理不尽な疑似社会を本意ではなく形成するという状況。管理する側の日本軍人たちが持ち込む秩序の芯は「誇り」だが、それは抽象的だ。誇り高くあれといえど、ではいったいどうふるまえばその行為は気高さを維持し、恥と対局に位置するのか。
日本人的行為の象徴のひとつとして「腹を切る」ことに関するやりとりが何度か描かれる。しかし、それは気高さの維持ではなく恥に対する罰行為であり、そのこと自身が「誇り」の表明とはならない。英国軍人たちにとって、それは残酷なショーのようにしか映らない。彼らは、生きることがまず一義にあり、死は何ら能動的な行動ではなく建設的ではないのだ。

これは価値観の違いだが、対立以前の問題だ。英国人(オランダ人なども含み連合国側、特にヨーロッパ圏内の人々)にとって「死を選ぶ」ことは議論するまでもない別の盤面の問題であり、そしてその「死」の拒否をハラ軍曹はじめ日本軍人たちは「臆病だ」と看做す。
(しかしよくよく考えてみると、ヨノイもハラも英国人たちの価値観を揶揄することはあれ、否定はしない。…この映画がもたらすカタルシスには、その無否定・しかし受け入れない、といった姿勢の描き方にあるのかも)

英国軍人の捕虜間でも価値観のずれは生じている。
捕虜長を任されている英国軍人ヒックスリーは経験豊富な大佐だ。ヨノイは、彼に戦略上必要な名簿の提出を命じているが、ヒックスリーは自身の名誉にかけて、祖国を裏切る行為はできないと提出を拒み続けている。そのことに対し直接的な脅迫や死に結びつく罰をヨノイは口にはしないが、ロレンスは「それで殺されたり捕虜の待遇面が悪くされたりするくらいなら名簿を渡してはどうか」と提言する。ロレンスの根底にはまたしても「生きる」ためのそれは臨機応変な行為だ、という考えがあるが、ヒックスリーは(彼自身が「死」を意識しているようには思えず、ただ自分は地位のある人間なのだからジュネーブ協定に基づきひどいことはされない、と多少この特殊な状況を頭で理解し過ぎている感はあるのだが)応じない。「生きる」ためにどうふるまうか、の考え方の違いは同じ英国軍人同士の間でも生じている

書き出せばきりがないほどここでは内面同士の葛藤が、まるでフィル・スペクターのウォール・サウンドのごとく散りばめられ、はめ込まれ、人々を動かし続ける。
ときにそれが処罰感情となり、赦しの形も取り、暴発もする。
先に挙げた主要人物だけでなく、脇にいる些末なはずの人物までもが思いもかけない行動を起こす。その人物がどんな性格でどんな経歴を持っているかは関係なく、ただ彼らは、その局面において「日本軍の軍人としてどうするのが相応しいか」に基づいて行動し、そしてときに「自然な感情を持った人間としての当然の希求」として行動を起こす。
人は社会的な枠組みのなかで生活している。枠組み内にはルールがある。この、生活するのにルールを設定する、というのが人間の特徴であり不完全さの証だろう。本能のみに従い行動する動物はいちいちルールを設定する必要などないのだからして

登場する人物たちの、そのルールへの向き合い方の異なる点がスリリングなのだ。
姑息な裏切りや、いかにもドラマめいた作り物の策略は映画のなかに存在しない。そのせいか、これほどさまざまなジレンマを抱える状況を用意しながらも映画は散漫になることがなく、ソリッドな印象を残す。
いや、スゴい。
絵の切り取り方や科白のやりとりがいま観れば古く思える場面もあり、ときに坂本龍一の音楽が過剰でうるさく思えたりもするのだが、そういった周辺の難点を飲み込んで、ただただテキストとしてのスゴみに溢れている。人の内面というものの謎をこうも潔く描いた作品はそうそうない
しかも大島渚という監督の絵作りが、既成の想定を許さぬカットになっている。会話している二人の顔を交互にすべて見せてしまえば、人物たちが何を考えているか観客には理解でき、よって次にとる行動も想像できるのだが、ときに「これ、フレーム切れてるのでは?」と思わせるほど大胆に、監督は「映さない」で物語を進めていく。

コアな大島渚フォロワーではない僕は、観終わって「『御法度』でもう一度、こういった疑似世界のなかでの人間の内面同士の相剋を物語にしたかったんだろうなぁ」と思ってしまった。稀有な役者は揃ったが、十数年を経てその望みは残念ながら叶わなかったんだな、と思ってしまう。なんとも残念。しかし、これはこれで決着してよかったのかも。

この記事が参加している募集

#映画感想文

65,734件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?