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『市子』/「火車」との時代の違いを感じる(映画感想文)

同棲していた彼氏からプロポーズされた翌日、川辺市子は姿を消す。
出生地や親について語ることのなかった彼女は、いったいなぜ恋人の前からいなくなったのか。先に待つ筈の幸せな生活をなぜ棄てたのか。それ以前に、市子とはなにものだったのか、…。

『悪人』(10)や『罪の声』(20)や近年では『怪物』(23)を彷彿とさせる、…と書くと「それはお前だけやろ」とツッコミが入りそうだが『市子』(23)もまた、市井の人々が見舞われる人と人の間に生じる闇や歪を描いた一作である。
大掛かりな犯罪でもなく(『罪の声』は大掛かりの犯罪の陰にひっそりと埋め込まれたごく普通の人の不幸だった)誰か痛快な活躍で解決をみる映画でもない。多くの人が気付かずに生きる、暗がりや歪のたてる軋み音を描いた作品。
こうした社会的な問題を照射する映画が作られ人の意識を変えていく、…ことまではできなくとも、知らしめることには意義があると思う。本や記事より映画の力を感じるのはこういうときだ。人生を圧縮し、十分に他者に理解できる形(それも二時間の。一冊の本を読み終えるよりもはやい)にして手渡すことが映画にはできる。日本の映画文化も豊穣になったと思う。

しかし反面、こういった映画が作られるようになったということは、それだけ日本の社会も貧しく生きづらくなってしまっている証左なのだ。そう思うと暗澹とした気持ちになる。『怪物』が描いた問題は以前から人という生き物のなかにあった恐ろしい、それこそ「怪物」なのだが、『市子』もまた限りなく現代的な歪に生じる「怪物」の物語でもある。

僕が生まれたのは69年なので、戦争が終わってから二十数年しか経っていない。しかし高度経済成長期を迎え、生まれたときには東京オリンピックも万国博覧会も成功裏に終わっていた。小学生の頃に社会が共有していた問題といえば、公害に続く省エネだ。それから20年ほどが経ちバブルが到来し、そしてバブルが終わってまたさらに二十数年以上が経つ。
効率化が声高に叫ばれ、タイパなどという莫迦気た冗談のような言説がさも大事に語られるようになり、質よりも量よりも速さが優先されるようになった。しかし、僕が生まれた頃の時代の革新的で発展的な変化と比べれば、バブルが崩壊したあと時代はなにも変わっていない。敗戦からあれだけの短い時間で豊かさを取り戻したのと同じ国に生きる人々は、この数十年スマートフォンという目先の誤魔化しとしか思えないオモチャを与えられ、それ以外のものを手に入れる努力も工夫もしなくなった。
崩壊したものは他にもあり、人と人との関係や、家族の像や、成功や、その成功を目指すこともそうだろう。成功したいなどと真面目に語れば揶揄される世界で、誰がよりより社会を作っていこうと思うだろう。

そんな、らしくないことを僕でさえ考えたのは『市子』を観ながら、この映画の中心に据えられた問題はかつては「なかった」と思ったからだ。
それと同時に、この映画と驚く程酷似したプロットを持つある有名な小説を思い浮かべ、両方の人物の取る行動がそっくりであるにも関わらず、しかしそこで描かれた人物のモチベーションと『市子』に登場する人物のモチベーションがまったく異なることに隔世の感を抱きもしたからだ。
その小説でも、婚約を控えた女性が突然失踪する。彼女を探す過程で彼女が語っていた「名前」が別人のそれだと判ってくる。
彼女の名前は「関根彰子」。
そう、宮部みゆきの『火車』だ。

『火車』の雑誌連載が始まったのは92年3月。構想はバブルの最中に作家の頭のなかに生まれたのだと思う。事件が起動するモチベーションは「豊かさ」への切望だった。
しかし『市子』においてその発端はまったく違う。どうしようもない、出生時からの事情と、やはりどうしようもなかった家族の問題だ。豊かならどうにかなった? そうかもしれない。劇中で「時間だけが過ぎていき気がつくともうどうにもならなくなっていた」といったことがある人物の口より語られるが、もし昭和の価値観を有した家族関係や、中の上と誰もが思っていた平均的経済状態でも保たれていれば、…こうはならなかったかもしれない。
小説の『火車』のなかでは、いまでは理想的となりかつては当たり前だった家庭の姿が存在するが、『市子』では、ごく普通の人々でさえ貧しく見える。そしてそのつましい生活でさえ手に入れるのが困難な「普通の幸せ」な姿として語られている

会社勤めの頃、若い後輩や新入社員たちと話すうえで、彼らは「バブルを知らない世代」なのだと自分に言い聞かせなければならない場面が何度もあった。24時間働けますか、とテレビCMが謳い、それがおもしろいと持て囃された時代を僕らは経てきた。働いて、お金を貰って、結婚して家と子どもと自動車を持つ。それが当たり前(だった筈だが、僕の同期で結婚はもうすでに難しいものとなっている、…。)のわれわれと、そんな時代があったことも知らずに、ただ穏やかにどうにか自分ひとりが生きているだけのお金を稼ぐのが仕事だという認識の若い人たち。
少し背伸びをしようとすれば、ふらつく足許には経済的な落とし穴が待ち受けている。
問題は、他人の足をひっぱったり、妬みや自分の卑小な満足のために他人を傷つけたりする人が増えたことだと思う。幸福な子ども時代を過ごしたことがなければ、人は幸福を感じない大人になり、もちろん誰かを幸福にすることなどできるわけがない

映画『市子』には、もとになった演劇がある。今作でも監督を務める戸田彬弘の率いる劇団が15年に公演した「川辺市子のために」がそれで、映画化にあたって脚本は戸田と上村奈帆が執筆している。もとの演劇がどれほど『火車』との類似性を感じさせるかは判らないが、戸田の、映画監督としての腕は相当確かだと思った。
物語の複雑な構成のモンタージュには賛否があるだろう(僕は、それはあまり上手くいっているとは思わない)が、切り取る絵と、動きのカメラへの収め方が素晴らしい。力のある絵を撮る作家だという印象。そして、人物の印象も物語が進むなかできちんと変わる。可愛らしい顔が歪んだ醜い利己的な顔になり、弱い人物が追いつめられて豹変する。
惜しむらくはこの物語の決着をもう少しでいいから、しっかり付けてほしかったということか。もちろん物語のすべてに決着がつくとは思っていないが、人により見解の変わる題材だけに、監督として、生み出したものの責任として、自分はこう思うがあなたはどうか、と突き付けてほしかった。そこだけは惜しいと思う。

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