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『福田村事件』/「わかっている」という欺瞞を暴く(映画感想文)

関東大震災が起こった直後、「朝鮮人が井戸に毒薬を投げ入れる」「暴動を起こす」といった流言蜚語が広まる。
背景には、日本が大陸に進出し統治を図っていたことがある。日本の高圧的なやり方に不満が爆発、各所でデモが起こり、それをまた暴力で抑え込んでいる、…といった情報が不確かながらも日本に流れ込み、日本人のなかに「朝鮮人は日本人に不満を持っている」「何かきっかけがあればそれが爆発する」といった疑心暗鬼が生じていたのだ。
警察や政府の末端が、事実ではない情報を流し人心をコントロールし、不都合から目を逸らさせていた気配もある。
千葉県の地方のその村は閉鎖的で、もとより村人たちに、自分たちの理解できぬ、知らないものを受け入れる習慣がない。村外のものに対する妬みも多分にあり、小さい世界の価値観から逸脱するものに対し想像力を働かせることができない。そのくせ、矮小なヒエラルキーには敏感で誰かを下に置こうとする。
その村へ行商の一行がやってくる。彼らは讃岐の出で、被差別者たちだ。安定したすまいや仕事が得られず、やむなく旅をしながら胡乱な薬を売り生計を立てている。商売はあやしいが、事情に因る。世間に対する恨みややっかみはあれ、希望もまたあるのだった。彼らのなかでも価値観はさまざまで、しかしなかには偏見や差別に対し心底から対抗できる正しい心をもったものもいる。行商の途中で、朝鮮人の売り子と出会う場面でそれは端的に表れる。「朝鮮人の売るものだから何が入っているか判らない」と悪口をいうものがいると、リーダーである男は「そんなこというな」と一喝する。「朝鮮人もわいらも同じ人間や」という信条を持つこの男を演じているのが、永山瑛太

1923年に起こり、長い間埋もれていた「福田村」の自警団に率いられた村人たちに因る行商人一行の虐殺を描いた映画、『福田村事件』(23)を観た。
目を覆いたくなる実際の事件を基にした映画だが、目を逸らしてはいけないと思う。
情報に踊らされ正しく判断できなくなる人間というのは、結局これだけメディアが進化したいまも多くいて、誤った判断から愚かな行動を起こす。その点は何も変わっていないのだから
聴いた説だが、個体として弱い生物は一致団結して自分より強く大きな敵に立ち向かうために意思統一がスムーズに行える性質に生物学的になっているのだそうだ。個々では、もっと詳細に検討した方がいい、誤りの可能性がある、と思いながらもいざという場面ではその慎重さは破棄され、集団としておもいきった行動に出るようにプログラムされているのだとか。であれば、宿痾のような愚かさからわれわれは逃れることはできないのだろうか。

コロナ禍においてマスクの買い占めが起こった。数十年前にも半ばパニック気味に同様の買い占めを人は起こしている。そのときの判断が誤りだったことを人は学びながら、結局同じ行動をとっている。
社会で歴史を学ぶのは、同じ誤りを犯さないように過去の体験に学ぶためだ、といわれているが、しかし戦争はまた起こり、陰謀説もまことしやかに語られ、実力行使以前の反〇〇といった他国への感情的な攻撃はなくならない。莫迦な為政者による「反〇思想」も相変わらずだ。くだらない人物が政治のトップに立つことがあるのは判るが、それに対して民主主義を学び、なにものかの独裁がろくな結果を生まないことを学んでも、また同じように誰かの手に陥り迷走する。
われわれはいったい何を学び、どう活かすことができるのだろう。
無意味な殺戮を行った福田村の人びとは無学だったからだ、と分析するのは容易だ。だが同時に、では無学なものは殺戮を行うのか、という(同語反復の誤りでも屁理屈でもないですよ)点についても考えたい。そんなことは当然ない。では、こうだろうか。無学なものは、蛮行に対するストッパーが利かない。…これは、そうかもしれない。
弱い人間は、常に誰かとの比較で自分を測り、そして常に他人を下に置こうとしている。無学だと自覚しているものは常に妬みを抱えている。
では、自分は無学ではなく、公平な判断ができている、という余裕のようなものが心のなかにあれば人は正しく判断できるのか、…?

『福田村事件』を観ていると、人とはこうも自身の正当性を訴え、主導権を持ちたがるものなのかと思わされ、はっとする
こうして映画についての記事を書く僕にしても、それは同じ。
自分の分析にある程度の正しさを認めていなければ、他人様の目に触れるようにアップすることはない(はず)。提示するという行為には傲慢さと自己正当性が潜んでいる。『福田村事件』に登場する無学であったりそうでなかったりする人びとを見ながら、自分は正しい立場で、無知なりに正しく謙虚に物事を見て、考えていると思っている。無意識にでも。
そして突然、頬をはげしく殴られる

観客である僕は村人や自警団や軍人会のメンバーを見て「こいつら無学だからなぁ」と思っている。なので、讃岐からきた一行が窮地に陥ったときも「莫迦な連中が無分別に人を殺そうとしている」と考え、こうも思う。「彼らは朝鮮人じゃない。何でそれが判らない(それは村人たちが無学だからだ)。朝鮮人じゃないんだから殺してはいけない」と。
そして、はたと自分も村人も同じだと気付かされるのだ。
ドキュメンタリー畑をひたすら歩んできた監督の森達也が、…という前置きをするのは失礼だろう。しかし、突然の映画的仕掛けにより観ているものの欺瞞は暴かれる。
村人たちは「こいつら朝鮮人だから殺してしまえ」といい、一行を救いたい数少ないものたちも勇気を振り絞って、「この人たちは朝鮮人じゃありません」と叫ぶ。
もちろん、僕も「いい人」であり「知っている」のだからして、「彼らは同じ日本人じゃないか。だから殺すな」と考える

体制がどうだとか、閉鎖的で排他的な連中がどうだとか、…すべてが吹き飛ぶ。映画的カタルシスとも捉えられるが、ここから先は自身のうぬぼれや思い上がりに鉄槌を下されたまま鑑賞せざるを得なくなる。
劇場をあとにして数日考え込む作品はままあるが、息を飲み、自分の嘘をこんな形で突き付けられた経験はこれまでにない。
その一点だけでもすさまじいが、作品全体が、そこだけに収斂することがないのもまた素晴らしい。内側と外側を行き来する人たちがいて、その彼らを見てほっとするのも確かだが、彼らの行き所のなさについての憂いもまた同時に胸を過っていく。
いったい何が正しかったのか。正しいと思っている自分を一度、振り返ってみることが必要なのだろうか。人間は社会的な生き物なので群れないと生きられない。しかし群れると誤った方向へ進むことがある。自分のなかのすべてを検討しつくすことはできず、ましては集団のなかで、そんなことができるはずが、…。
諦観と、自身の無知を思い知らされながら、しかし後味は悪くない。なぜなのか。不思議な映画。欺瞞を暴かれたあとの、心地よさ。そこかしこに、小さいが救いの萌芽もある。

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