私だって恋がしたい 脳性麻痺の女の子のラブストーリー 第三章 孤独

 誰もが少なからず両親には愛憎悲喜こもごもな気持ちを有している。子どもに障碍がある時、その濃度は通常よりずっと濃厚になるのは避けられない。

 未熟児として産まれ落ち、出産初期の保育器での酸素欠乏が原因で、沙織は脳性麻痺による肢体不自由の障碍を負った。その自分の境遇へのやるかたない憤懣をぶつける相手といえば、両親のほかにはなかった。

 地域の小学校で沙織は周囲の子どもたちの剥き出しの残酷さにさらされ続けた。左右に体を揺すりながら左足を引きずって歩く姿を物まねされる。「びっこ」「びっこ」という言葉を投げつけられる。
 嘲笑するクラスメートたちのただ中で沙織のできることは激昂するのとは反対にただ平気な顔をして笑みを浮かべていることでしかなかった。

 「びっこっちゅうのは差別の言葉や。今度使てるのを見たら、親を呼び出してきびしく注意するから、そのつもりでおれよ」

 強面の学年主任の男の先生がクラスにそう注意しに来てからは、今度は沙織は皆に無視されるようになった。話しかけても誰も答えてくれない。いじめは水面下に潜っただけである。
 トイレに時間のかかる沙織が教室に戻ると、弁当箱がひっくり返されていることがあった。水筒がわりのペットボトルに誰かが食べた後の梅干しの種が突っ込まれてお茶の中にぷかぷか浮かんでいたことがあった。

 「いったい誰が?」と周囲を見渡しても、皆、顔をそらしてしまうだけである。

 中学になって、沙織が思いもよらぬ美しい少女に成長しはじめたとき、幼い頃からの知り合いである男子たちの反応は複雑だった。
 心中は知る由もなかったのだが、少なくとも表面的には、この頃から女子の陰険さと男子の屈折した言動は、相乗作用を起こし始めた。

 教室の黒板の前で女子たちの手によって、引き倒され、スカートを脱がされたとき、遠巻きに見ていた男子たちの淫靡な表情は忘れない。

 彼らは、助けるか、目を反らすか、様々な選択肢の中を揺れなかったというわけではないはずである。
 だが、結果的に露わになったパンティや太ももをニヤニヤしながら見ることを選ばなかった者はひとりもいなかった。
 そのことは、沙織に「先生」と呼ばれる人種以外のすべての男子への絶望として刻み込まれた。

 だが、その実、そのような教室の肝心な実態は我知らず、「人権」という内実の不明な言葉を振りかざしては職員室と呼ばれる別世界に引き上げてしまう「先生たち」にも、沙織は密かに絶望していたのかもしれない。

 学校で何の抵抗もできず、笑っているか、泣き叫ぶかしかできなかった沙織は、その抑圧された怒りのすべてを両親に、殊に最も優しい母親にぶつけるしかなかった。

 家の中で、理由も説明せずに突然暴れ出す沙織。母親を殴り、薬缶を投げつけ、包丁を差し向けたこともあった。

 母親は理屈には関係なく、ひたすらに沙織に「ごめん。ごめん。沙織、ごめん」と謝るばかりであった。
 自分の力では押さえ付けることもできないので、床を這いずり回って電話機に辿りつくと、泣きながら父親に電話するのだった。

 「お父さん。沙織が暴れてる。早く帰ってきて」

 家の中がそんな騒ぎで荒れまくっている間中、四つ年下の弟は自分の部屋に閉じこもり、出て来なかった。

 小学校の高学年で不登校になった沙織は、中学に進学すると同時に病虚弱児支援学校と連携している病院に入院した。
 既に固定状態にある脳性麻痺の治療というよりも、学校や家庭での精神的不安定を主な要因とした入院だった。
 そして病室から支援学校に通うようになった。だが、そこでもまた人間関係の悩みから不登校がちであった。

 出席日数の多寡に関わりなく、年数がたてば義務教育では卒業証書が発行される。
 
 そうして支援学校高等部に進学することになった沙織は、退院して暮らしの場を家庭に戻した。
 さすがに高校生になった沙織は、両親と心理的距離も生まれ、家庭でのトラブル自体は少なくなった。

 (そんな中、前章で言及した谷口との「情事」があった。)

 三年次の担任は、未婚のまま支援教育の畑を歩み続けてきた初老の女性教師だった。
 彼女は、知的な遅れが見られない沙織に、医療事務の資格を取得する専門学校への進学を勧めた。
 座位のままの作業の多い分野なら、資格を取得してさえいれば一生の仕事としてやっていけるのではないか。

 沙織はその先生を信頼していたし、男から自立した生き方に魅力を感じていた。
 自分も資格を取得し、それを活かした仕事をすることで、谷口のような男に二度と翻弄されない人生が歩みたいという希望を抱いた。

 医療事務の専門学校に進学した沙織は、自分の人生も山間の激流からやっとゆったりとした流れの河に出たように感じた。
 専門学校では、人間関係が濃密でなく、授業をこなし、単位を取得することだけを考えていれば、日々は平穏に過ぎていくのだった。

 そんなある日、沙織は一年年上の先輩にドライブに誘われた。

 
 岡本というその爽やかな青年は、沙織を自宅まで車で迎えに来てくれた。
 予約しておいたフランス料理店の駐車場から沙織を席までスマートにエスコートしてくれた。
 車を運転する自分は飲まないというのに、ワインは好きだということを車の中でさりげなく聞き出していた彼はその店で一番高いワインを「ちょうどええだけ飲んだらええねん」と言ってグラスで注文してくれたのだった。

 コース料理が終わりに近づいて、デザートのシャーベットが出てきた頃、それまでの楽しい会話の流れが途切れたように、沙織は感じた。
 沈黙に沈んだ岡本が次に何を言い出すのか、しばらく凪のように空気が静止している時間が流れた。

 「沙織ちゃん」 

 それまで名字で滝川さんと呼んでいた女性に向かって、岡本はそう声をかけた。

 「週に二つしか、授業が重なってへんけど」

 そこでまた言葉が途切れた。

 「うん」

 沙織はとりあえずそう相づちを打つしかなかった。

 「いつも見ててん」

 岡本は意を決したようにそう言うのだった。

 「好きや」

 考えてみれば、谷口からははっきりとその言葉を聞いたことなどないような気がした。
 沙織は岡本の率直なところを「かわいい」と感じた。

 「つきあってほしいねん」

 障碍のない同世代の男子から、普通に告白されるのは初めてのことだった。
 胸の中にふわっと甘酸っぱいものが広がった。

 

9

 岡本と付き合うようになって沙織は谷口がサディストの傾向のある男性であったことに初めて気がついた。
 例をひとつしか知らなければそれが普通だと信じてしまい、視野を相対化するチャンスを持てない。

 谷口がすべての男の代表ではなかったんだ。
 そんな当たり前のことに二十歳になった沙織はやっと目覚めたのだった。
 それが「セカンドラブ」の持つ大きな意味のひとつだった。

 岡本はいつも沙織を愛車で迎えに来てくれた。
 二人でおいしいものを食べ、それからホテルでたっぷり睦び合い、また車で自宅まで送ってくれた。
 沙織は殆ど歩く必要がなかった。
 松葉杖を使って長く歩くと、腰や股に痛みが走り、就寝時にもそのダメージが残ることが多い。
 そんな沙織を岡本はとても大事にしてくれる。
 沙織はそう感じて幸せを噛みしめた。

 同世代の男子との恋愛は沙織にまた新たな自信をもたらしてくれた。
 自分には脳性麻痺という身体障碍がある。
 けれども一人の女として認め、愛してくれる存在がある。
 考えてみれば今までも男性から「かわいい」「きれい」「つきあって」と言われることは、周囲の女子よりむしろ多かったかもしれない。
 ただ、狭い交友範囲の中には、障碍を持つ男子か、教員しか、男性という存在がいなかっただけなのだ。

 専門学校という巷に出るようになり、交友範囲が広がると、岡本のような他の女子からも羨まれるような素敵な男性が自分に「好きや」と言ってきた。
 沙織は鏡を見つめるたび、自分は美しく生まれついたのだという歓びに浸ることができるようになった。
 男たちの多くがこの私に惹かれる。
 これまでは両親を恨むことの多い沙織だったが、そんな風な美しい容姿に産んでくれたことにむしろ感謝の念を覚えることも増えてきた。

 こうして幸せな月日が流れ、ひとつ年上の岡本は大手の病院の医療事務職の幹部候補としての就職が決まり、一足先に卒業していった。

 岡本が就職した比較的大きい病院には同業の医療事務職はじめ、看護婦など多くの女性が働いている。
 沙織は、いつか、障碍のある自分よりも、岡本が別の健常者の女性を選ぶのではないかと不安でたまらなかった。

 が、社会人になってからも岡本は変わらずやさしかった。

 「今年はおまえの就職活動の年やな」

 いつものように車のハンドルを握りながら岡本が言った。

 「うん。がんばってええとこ、見つける」

 助手席の沙織は、いつも優しい岡本を頼もしげに見つめ返しながら微笑んだ。

 「そうやな。そしたら共働きやし、十分やっていける。子どももつくれるな」

 「えっ?」

 「ははは。妄想、妄想」

 岡本は笑ってごまかしたが、沙織にはまぎれもないプロポーズの言葉としか思えなかった。
 大きなスプーンに一杯の蜂蜜を思い切りたっぷり掬って舐めたような感触が頬に広がり、胸に落ちていった。

 まずはがんばって就職活動しよう。沙織はそう決意を固めた。

 就職指導室にも足繁く通うになった。

 

 だが、そこで沙織は新たな壁にぶつかることになった。

 ある日、就職指導の中村という五十がらみの男性は、目の前のパイプ椅子に座った沙織に向かって、ごま塩髭をかきながら、こう言うのだった。

 「いや、調べたんやで」

 「はい」

 「いろいろ調べたんやけど、この学校からは、肢体不自由の生徒の就職の前例がのうてな」

 「私、座ったままでできる事務仕事を専門にまかされるような大きな病院への就職を希望していて。そういう求人ありませんか?」

 岡本の勤める病院の名前が喉から出そうになったが、それだけはなんとかひっこめた。

 「ノウハウがあらへんねん。実績があらへんねん。ここの学校の就職指導では、どうしたらええかわからんねん。肢体不自由でも大丈夫やという求人も来てへんしな」

 「中村先生。私、就職指導部が頼りなんです」

 「そう言われてもなあ。あのな。こういう場合は、直接ハローワークに行ってもろたほうがええかもしれん」

 「ハロー・・・・ワークですか」

 「そう、障碍者求人の専門家に会うて相談するんや」

 「でも、私、この学校で医療事務の資格を取得したんやし、それを活かした仕事の求人はこの学校にたくさん来ているはずだと思うんです」

 「障碍がなかったらな。障碍がなかったら、君の言うとおりや」

 「この学校では障碍者の就職は世話できないという意味ですか」

 「ていうのかな。つまり、障碍者の就職の専門家はハローワークにしかいないということを言うてるんや」

 「そんな・・・・私、私は障碍者である前にまず医療事務の資格を持った、この学校の学生です!」

 強い口調に、中村は困惑した表情を浮かべている。その背後の就職指導室の壁がぐらぐらと揺れるような気がした。メニエールという授業で聞いたことのある病名が頭に浮かんだ。

 「先生。壁が揺れてます」

 「そう。だからな。いろいろと体の条件も厳しいやろ。余計にな。見つけにくいねん」

 彼は、そんな追い討ちをかけるような台詞を、思慮もなく沙織に投げつけた。


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