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ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜① 『木曜日の恋人』

 泣きながら彼女は言った。

「どうして嘘ばかりつくの?」

「え?」と僕は答えた。

 それが僕たちの交わした初めての会話だった。

 携帯電話もインターネットもない、ゆるやかに、けれど大きく時が流れていた頃の話だ。

 僕はまだ十代だった。

 大学に進学し、東京で一人暮らしを始めたばかりで、世の中についてなんにも知らない子供だった。

 そもそものきっかけは間違い電話だった。

 どしゃ降り雨のある木曜日、夜十一時のことだ。彼女は雨に負けないくらい激しく泣いていた。そして雨に負けないくらい冷たく僕を叱責した。

「あの、番号を間違えていませんか?」と僕は彼女に言った。

「……最低」と言って彼女は強く受話器をおろして電話を切った。どうやら彼女は、本当に話したかった相手が、また一つ嘘を積み重ねたと勘違いしたようだった。

 五分後、再び電話が鳴った。

「ごめんなさい。間違えて電話をしたみたい」

 何度も掛けているであろう番号を押し間違えるなんて、彼女はよっぽど動揺していたんだろう。

「ねえ、お願い。あなたでいい、ううん、あなたがいい、わたしの話を聞いてほしいの。少しだけ時間をくれない?」

「かまいませんよ、どうぞ」

 彼女は彼女の恋人である男との馴れ初めから、これまでに彼がいかに彼女を傷つけたか語った。

 今ならそれをありきたりな男女の物語だと言えるけど、恋人のいたことのなかった当時の僕にとっては、テレビドラマの中のように遠い世界の話に聞こえた。

「それはひどいですよ。どうしてそんな人を好きでいつづけるんですか?」話し終え、どう思うか聞かれた僕は素直にそう感想を述べた。

 彼女は笑った。その時僕は初めて彼女の笑い声を聞いた。

「そうね……、たしかにそうかもしれない。でもあなたにだってこんな経験ない? 誰かをどうしようもなく好きになってしまうってこと」

「そりゃあ……」

「そういう経験をすれば、あなたもきっと分かるわよ」

「気をつけます」と僕が言うと彼女はまた笑った。

「話を聞いてくれてありがとう。おかげで気持ちが楽になった。よく眠れそう」

 一時間以上続いた会話はこんな風に終わった。電話を切ってから、僕はあれに対してはこう言えばよかった、と様々な考えが浮かび、中々寝付けなかった。

 一週間後の同じ時間、彼女からの電話があった。

 僕は嬉しかった。この一週間というもの、あの幻想のような電話のことが僕の頭の片隅にいつも居座っていたのだから。

「お元気?」と彼女は言った。

「これは間違い電話じゃないわよ。あなたに掛けているの」

 そうして僕たちはまた話し始めた。

 けれども、年齢、職業、そして名前さえ、個人的な情報を彼女は慎重に避け、僕にも何も尋ねなかった。

 次の週も、また次の週も、彼女は木曜日の夜十一時にやって来た。

 僕は木曜日の夜だけは、誰からの誘いも断り、家にいるようになった。

 そうやって僕たちは話し続けた。

 彼女はまるで、木曜日にだけ会いに来る恋人のような存在だった。

 そう、いつしか僕は彼女に恋をしていた。

 その思いが高まり切ったある木曜日、僕は彼女に「会いたい」と告げた。

 彼女は少し黙ってから、こう言った。

「それはやめとこう」

「どうして?」

「だって、私を見たら、きっとあなたは幻滅するもの」

「そんなことはない」

「それにわたしだって、あなたを見てがっかりしたくない」

 それについて僕は何も言えなかった。

「冗談よ。でも、会ってしまえばわたしたちの関係は、ずっと良くなるか、ずっと悪くなるかしかないじゃない? 今のままってことはありえない。わたしにはそれが恐いの。名前も知らないあなたにこうやってわたしの淋しさをゆだねていたい。ってわがままだよね」

「君さえよければ、いつまでもそうしてくれていい。けど、僕の淋しさは、これだけじゃ紛れないんだ。君のことをどうしようもなく好きになってしまったみたいだよ」

「どうしようもなく好きになってしまってもね、どうしようもならないこともあるの」

 彼女は泣いていた。初めて話したあの夜みたいに。一つ違うのは、その涙が僕のために流されていたということだった。

 こうして僕の木曜日の恋人は去って行った。

 長い時が過ぎた今でも、ふいに彼女の声が蘇ることがある。そんな時は、やはりその声の持ち主の容姿を想像してしまう。

 どんなヘアスタイルなんだろう。歯並びはどんな様子か。何色のセーターが似合うんだろう。そして今は、幸せなんだろうか。

 彼女の声は、いつまでも僕の耳の中に眠っている。


曲・荒井由実「何もきかないで」


SKYWAVE FMで毎週木曜日23時より放送中の番組「Dream Night」にてパーソナリティの東別府夢さんが僕の書いたショートストーリーを朗読してくれることになりまして、上記は1月6日に放送されましたおはなしの朗読原稿です。
毎週木曜日23時から放送のラジオ番組ということで「木曜日の恋人」というタイトルから決めて書きました(そうだったはず)。

来週も朗読があるとのことですので、「木曜日の恋人」がお気に召しましたらば、次週の「Dream Night」でお会いしましょう。

SKYWAVE FMは下記ホームページで聞くことができます。



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