「レシピ」から「真理」を学ぶためには、それなりのプロセスが必要だ、という話
「メルジメッキチョルバス」を作る
「レシピがないと料理ができない」という方がいる。
その気持ちも、とても良くわかる。
ぼくも突然「今から『ハマーム・マハシー』を作ってください」と言われても困る。「 『メルジメッキチョルバス』をお願いします」と言われても、それが何を指しているのかすらわからない。
こういうシチュエーションでは「レシピがほしい」と思うのは当然だと思う。というか「ハマーム・マハシー」にしろ「メルジメッキチョルバス」にしろ「それが何か」を理解するハードルが高すぎるという説はある。
裏を返せば「ハマーム・マハシー」にしろ「 メルジメッキチョルバス」にしろ「レシピ」、つまり「それがどういうものか」や「材料に何が必要なのか」「どういうプロセスを経て作ればよいのか」がわかれば、ゴールまでたどり着ける。
そのために「レシピ」は存在するのだろうと思う。
なお「メルジメッキチョルバス」について詳しく知りたい方は、こちらのページを見ていただくのが早い。
https://jp.ndish.com/recipe/re00794/
レシピとは「型」である
料理における「レシピ」とは「型」あるいは「テンプレート」のようなものではないか。その通りにやれば、だいたい上手くいく。
これはこれで、大変価値のあることだと思う。「型」も「テンプレート」もなしに「ハマーム・マハシー」だの「メルジメッキチョルバス」だのを作ろうとしても、途方に暮れるだけだろう。
見慣れない服を着た君がいま出ていったのは『そして僕は途方に暮れる』。そう、大沢誉志幸。知ってるかなー。知らないだろうなー、今どきの若い子は。
それはさておき。
もちろん、その「型」をずっと守ることも重要なことである。まずは「型」を繰り返して身につける。
しかし、この「型」を繰り返す時に大切なことは「なぜこれをこうするのか」を考えること、だと思う。
なぜ、玉ねぎを出汁で煮るのか、鶏肉は後から入れるのか、そもそも、出汁に酒としょうゆとみりんを入れるのか、といったことを意識的に考えてみる。
そうすると「あ、玉ねぎに先に煮ることで、鶏肉に火が入りすぎて固くなるのを防ぐのだな」とか「出汁に酒としょうゆとみりんで、こういう味になるのか」と理解する。
レシピと真理の話(大げさ)
でも、これを単にレシピ通りに材料を切り、レシピ通りに調味料を用意し、レシピ通りに鍋に入れて調理するだけでは本質、超大げさに言うならば「真理」的なものにたどり着くところまでいかないような気がする。
「レシピごときで何を大げさな」と言うかもしれない。
ぼくもそう思う。
ただ、物事を見る時に「なぜこれはこうなっているのか」と考えたり「どうしてこれはこうするのか」を考え、分析し、その仮説に基づいてトライしてみるということは、何ごとにおいても大切だろう。
「守破離」という言葉がある。
まずは基本を「守」る。その後、その基本を「破」ってみる。そして「離」れる。でもこれは、基本があるから初めて「破」や「離」に到達するわけだ。
ぼくの中に正しい「メルジメッキチョルバス」がない以上、どう頑張ったとしても「メルジメッキチョルバス」を破ることも、離れることもできない。無理に破ったり、離れようとしても、それはもはや「メルジメッキチョルバス」ではありえないわけだ。
まあ、このへんはメルジメッキチョルバスを言いたいだけという指摘もあるだろうが、スルーさせていただく。
とにかく、これは大いなる矛盾で「型」が身につかなければ「型」を破ることも、離れることもできないということなのだ。
「型」から「真理」に至る道(引き続き大げさ)
これは、様々な「学び」でも同じことが言えるんじゃないか、と思う。最初は何でも基本を言われた通りに、とにかく反復練習するしかない。そうすると、段々と「できる」ようになっていく。
学びに対する理解や習熟度合いが上がってから「これは何がどうなっているのか」の分析を始める。そして、深い理解に繋がっていく。最初から頭で全てを理解しようとしても難しいし、逆にある程度学びが進んできたにも関わらず、ただ言われた通りの反復を続けているだけでは、ブレイクスルーが起こらない。
型を学んで、量をこなして、そこから「コツ」とか「分析結果」みたいなものを掴まえて、それを自分なりに検証する。その結果、他の分野でもその学んだことが活かせたりする。それが、ぼくらの「学ぶプロセス」というものなのかもしれない。
てなことを、ぼくは武道を学ぶプロセスから感じている。武道は最初、型稽古を徹底的に叩き込む。型ができるようになると、身体の使い方の基本・基礎が何となく理解されてくる。そうすると、全く違う分野においても「こういうことかな?」の応用が利くようになる。
ゆえに「とにかく100回『F』のコードを弾いてみる」とか「とにかく正拳突きを1日100回やる」みたいな「数稽古」は、ある一定のフェーズでは大切なんだろうな、と思う。もちろん、その裏側で指導者が、こういうプロセスへの理解を持っていることが絶対条件にはなると思うけれど。
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