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未来に希望を持てなかったから自分だからこそ、希望を発見でき、ともに未来を作るメディアを作りたいと強く思う。

「明日が、明後日が、1年後が。今日よりも良い日だと思わない限り、人は生きることが辛くなる」

最近、ふわふわっと感じていたことだ。

なんでそう思うんだろう?今までのことを振り返ろうと思う。

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初めまして、難病大学生のあべこうです。大学に通いつつ、入院したり通院したりしながら、傍らで起業をしようと考えています。最近では本を作ろうと奮闘中です。
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―はぁ、高校に行くのめんどくさい。。。

高校2年生の秋。僕は一時期不登校になった。

高校に入学して、文化祭実行委員会と生徒会に入り、文化祭や新入生歓迎遠足の企画、生徒総会、定期戦、清掃活動などをやってきた。

1年生~2年生の前期までは、毎日がワクワクとドキドキの中にあったと思う。特に生徒会のメンバーにも恵まれ、仲の良い同級生たちと優しい先輩に囲まれて、非常に楽しい高校生活をしていた。

ただ、高校2年生の秋。生徒会退任式と文化祭が終了し、高校に行くやる気を見出せなくなった。高校は普通科高校だったので、「後は修学旅行と大学受験だけか...。はぁ、、、これからつまらないな~」と思うようになった。

当時の偏差値も40あるかないかで、「親から言われている国公立大学なんて到底無理だ....。」と諦めていた。

そして、不登校になった。

不登校期間中は、先生から電話がかかってくることもしばしばあり、同級生や部活の同期からもLINEが来る。その連絡たちは、まるで「こっちの世界に戻ってこい」と足を引っ張られているような嫌な感覚だった。

不登校期間は家にいた。ずっと家にいて、食事も1日に1回食べるくらい。ずっとゲームをしてアニメを見てゲームをしての繰り返しだった。毎日がつまらなかった。勉強もしたくないし、高校に行ってもどうせ楽しくないし...。

「これから先どう生きよう、、、」とぼんやり考えながら、自宅に居た。無気力状態言葉がよく似合う高校生だった。

―ビリギャルとの出会い

不登校になって2週間?が過ぎそうな頃。見たい映画も見つくしていた時、ある映画と出会った。それが「ビリギャル(学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話)」だ。

簡潔に映画の内容を話すと、偏差値30で2年生最下位のギャル工藤さやかさんが、とある個別指導塾の塾講師、坪田先生に出会ったのきっかけで、慶応義塾大学を目指し見事合格するという話だ。

当時この映画を見たのが2年生の11月。主人公の工藤さやかさんが塾にいったのも2年生の冬。恐らく、同じ時期のさやかさんに自分を照らし合わせていたのかもしれない。

この映画を見て、「一回頑張ってみようかな」と思うようになった。

作中には「さやかちゃんはクズなんかじゃない、可能性にあふれる最高に素敵な女の子です!」「可能性があるってすごく大事なの」という坪田先生の言葉と、さやかさんの努力とみて「一回頑張ろうかな」と思えるようになった。

そして、修学旅行の1週間前。約1ヶ月半の不登校期間を得て、自分は高校に戻った。

ー大学に入学すればワクワクとドキドキで満たされる。だから頑張る。

修学旅行が終わると、もう2年の3学期だ。普通科高校や進学校だと2年の3学期は3年0学期と呼ばれ、受験勉強が本格化していく時期でもある。

「受験か...頑張ろ...。」

ビリギャルの影響で、意識だけは高くなっていたのだが、実際にエンジンがかかったのは3年の部活が終わった後の7月くらいだった。

大学に入学した高校の先輩と話したり、大学の資料を読んだりしていくうちに少しずつやる気が出てきた。

「大学祭の実行委員会をやって、高校の文化祭に負けないイベントにしよう」とかふわふわと思いながら勉強をしていた。

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(当時の勉強時間の記録である。土日は半日勉強し平日も高校の授業時間である7:30~18:30を除いても3~5時間は勉強をしていた)

模試結果が届いて落ち込んだ時は、すかさずビリギャルの小説を読んだり、映画を見まくった。1日に映画を3回見てから勉強したこともあった。

全ては「キラキラした自由のある大学生活のために」

必死に必死に勉強をした。

ー最後のマーク模試で見つけた希望と。

そして、センター試験前。最後の模試結果が届いた。確か、北九州予備校の北予備マーク模試だった。

センター試験前の最後の模試は、センター試験の点数予測になるだけでなく、合格できる可能性のある大学を見極める最後の模試だ。

裏を返せば、この試験でE判定以上。せめてD、C判定を取ることができなければセンター試験は絶望ということになる。

今まで第一志望の大分大学、第二志望の宮崎大学、第三志望の琉球大学。すべてE判定だったので、この模試で希望が見えなければ合格はほぼほぼ絶望だ。

結果は。

大分大学D判定、宮崎大学C判定、琉球大学B判定という結果だった。「努力し続ければ、あきらめずに信じ続ければ、想いは必ずかなう」と思った瞬間である。ビリギャルの坪田先生も、作中で何度も何度も言っていたのを思い出した。

そして、、、、、

センター試験を受験し、自己採点をした。自己採点結果は456点。

その後自己採点結果をもとに、河合塾、ベネッセから予測判定が出てくる。すべての国公立大学がE判定だった。

「うわ、おわった、、、、」と思った瞬間だった。

「いや、あべこう、でも琉球大学ならワンちゃんあり得るかもしれない」
担任の先生が提案してくれたのは、二次試験での逆転合格だった。

幸い、琉球大学工学部の二次試験は難しく、平均が3,4割。ここで5,6割を取ることができれば合格できるかもしれない。しかも、二次試験の問題は受験で一番力を入れていた数学と物理のみ。

「これだったらもしかして、、、」と思い、志望大学を琉球大学工学部に設定し、二次試験の勉強を始めた。

ー最大に辛かった二次試験

この二次試験の勉強が一番つらかった。まず、数学と物理以外勉強しないため、他の科目に移って息抜きができない。常に計算と数式と向き合う2ヶ月だ。

しかもそれだけではない。私が通っていた高校では、二次試験がない人たち(私立、専門学校、推薦入試組)は二次試験の勉強期間中、学校に来なくて自宅学習でもよかった。

つまり、頑張る仲間が少ないのである。学年の2/3は自宅学習でいなくなり、国公立大学志望を集めた1組ですら、半分くらいの人はいなくなった。

そんな中、勉強をしていくのだ。

正直、「いや無理だ」と思い学校に行かない時もあった。学校に行かない時は、その日のノルマを自宅で勉強し、ビリギャルの映画を見まくった。「意志あるところに道は開ける」この言葉何度救われたかわからない。

口を枕につけて、何回叫んだことか。何度物に当たったことか。

そして、2月の中旬。半分以上精神の限界の中、二次試験会場である沖縄に飛んだ。現地で出会った人と友達になり、最後の最後まで勉強をした。

ー残酷な世界

二次試験が終わった後はバタバタだ。すぐ卒業式の練習があり、卒業式があり高校生活が終わった。

「自分はどこの大学に行くのだろうか?」と不安を感じながらの卒業式は、どこか生ぬるい変な違和感があったのを思い出す。私立の特待生で崇城大学と日本文理大学は決まっていたので、恐らく崇城大学かな?とか思っていた。

ついに、運命の合格発表。

自分は琉球大学工学部に合格した。E判定からの逆転合格を果たしたのだ。

内心本当か?と思いつつ、一番仲の良かった友人と担任の先生に「合格しました!」のあいさつに行った。いろんな人たちから祝ってもらい、「努力が実った」と思った瞬間だ。

今でも思い出す達成感。

「やった!国公立大学に行けた!これで自由で楽しい大学生活が待っているぞ~~~~!!!わーーーい!」

それから二週間後。僕は緊急入院をした。

ー希望が見えない闘病生活の始まり

呼吸困難と体重増加のために、地元宮崎の病院を回り、最終県病院で検査をし、結果腎臓の難病である「ネフローゼ症候群」と診断された。今でも忘れない、3月23日のことだ。

当時は「なんやそれwww」みたいな感じで、軽く考えていたので楽天的だった思う。それに考える以前に治療と副作用が辛く、ご飯食べて寝て検査して薬飲んでの生活をしていた。

事の次第を理解し始めたのは、沖縄の病院に転院した4月13日からだ。

「大学生活が始まる。嫌だ、置いていかれたくない、大学に行かなきゃ」半分焦った感情で沖縄に飛んだ。むろん、入学式もサークル部活動紹介も、新入生歓迎会も、新入生オリエンテーションも行けていない。

沖縄に転院した時も、ずっとずっと外出禁止で入院していた。地元が宮崎ということもあり、沖縄には誰も親戚がおらず、話し相手といえば病院で仲良くなった患者さんと、教育実習で来ていた医学部の先輩、研修医の先生と主治医、看護師の方だった。

大学の講義も行けないため、講義担当の先生と連絡を取り合い大学のシラバスを参考に、教科書で自分で勉強した。病院の中で。

「ここのまま大学に通っていていいのか?」「難病なのに、工学部卒で大丈夫なのか?」「そもそもこの身体で仕事できるのか?」

ネットで調べて出てくる情報は、「ネフローゼ症候群 仕事できない」「ネフローゼ症候群 辛い」「ネフローゼ症候群 副作用」のような情報ばっかりだった。

闘病ブログも何個も見て「解雇された」や「生活保護を受給している」などの情報を見かけるたびに「難病に未来はないのか...。もう生きることができないのか俺は...。」と思うようになった。

そしていつしか、その気持ちを自分の中に閉じ込めるようになった。特に、5月に一度退院したのだが、6月に再発し再入院した時は一番辛かった。入院費もかさばり「これでは将来どころか、今もやばい」と感じるようになった。

「これは無理ゲー...だ。」

ーある人たちとの出会い

「やばい、無理ゲー...」と感じてからは、生きることが辛く、ただただ毎日の勉強をして大学の単位と奨学金のために生活をしていた。毎朝ため息から始まり、ため息に終わる生活。

不登校期間で無気力状態になったとき、と同じ状況である。

そんな中でも、「難病で活躍している人」の情報は絶えず探しまくった。

「1人でも活躍している人がいたら、自分も頑張れるかもしれない」と思っていた。ある種、受験期間でいうところの「ビリギャル」の難病バージョンを探していた。

そしたら、沖縄で別の難病だけど活躍している人を知った。高校生活中にSLE(全身性エリテマトーデス)を発症、その後アルバイトで大学の入学金をためたり、ベンチャーで仕事をしていたりしていたパワフル大学生だ。

「こんな人もいるんだ、、、すごい」と素直に思った。

「いつか話してみたいな、、、、」当時大学1年生だった自分はそう思った。(ちなみに3年の年月を得て、つい最近繋がることができた)

また、それ以外にもすごい人たちと出会ってしまった。

琉球大学生でありながら起業し社長として経営をしていた教育ベンチャーの先輩、琉球大学を卒業後に一回銀行に入ったものの、その後起業した先輩、沖縄という場所で超有名な大学生の先輩、大学のイベントで出会った同じ難病ネフローゼ症候群と付き合いながら、社長をしている人。

そんな人たちと出会い、自分は自分の可能性に賭けてみたくなった。

いや、当時の自分はそんなことを思っていないと思う。

「すごい!この人達みたいになりたい!」と漠然と思い、「この問題を解決しないといけない!」という使命感で活動を始めた。

それからは、色んな活動に手を出して、、、、、今がある。

ー未来に希望を持てたとき、人は生きることができる

冒頭で書いたこの言葉「明日が、明後日が、1年後が。今日よりも良い日だと思わない限り、人は生きることが辛くなる」

これは、この原体験からきている教訓である。

「もし明日が、今日より昨日より悪い日、辛い日だとするのであれば、自分はたぶん生きれていない」

言い換えると「未来に希望を持てたとき、人は生きることができる」という。裏を返せば「未来に希望が持てない時、もしくは希望が見えない時。人はどん底状態に落ちるもしくは、無気力状態に入る」と思う。

自分はそうだった。国公立大学に合格しないと信じていない時、無気力状態だった。難病で活躍できないと思い込んでいた時、自分は無気力状態だった。辛かった。つまらなかった。感情もなく、ただただ生きているだけの生活だった。

でも今は違う。

今日より明日が、明日より明後日が素敵な世界になる。素敵な世界にする。そう信じて日々を生きている。

ー希望を見つけるきっかけを作り、ともに未来を作るメディアを作りたい。

「どん底1日目ー難病当事者が綴る手紙ー」という本を作りながら、色んな難病の方にヒアリングをして思ったことがある。

「インターネットでの難病の情報は、基本的に暗いか、ノウハウに収束しきっている」と。つまり「物語」あまりない。「希望を見つける」ことが厳しいようなコンテンツになっているのではないか?ということだ。

多くの難病の方、もしくは難病と診断されて間もない方、そのご家族は「難病」の情報をネットで調べる。ただ、調べた先に希望が少ないのである。

希望を見せることができなければ、辛くなる。今よりも明日が辛く苦しくなる。

そんな世界の中で、誰が生きたいと思うだろうか?

明日のほうがきつく、来年の方が今より辛い。そんな世界に生きたいと思うだろうか。いや、きっと誰も生きたいと思わないだろう。

だから。小さく小さくでもいいから始めていきたい。

インターネット上で、希望を見つけるきっかけを届ける、そして一緒に未来を作っていくメディアを。

そして、自分は未来を届けるプロデューサーになりたい。

それが使命であり、30歳までになりたい自分だ。

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