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food skole 第7/8回目のメモ

第7/8回目の講師は、「クックパッド」の横尾祐介さん。
7回目のテーマは「なぜ料理をするんだろう、を考えてみる。」
8回目のテーマは「おむすびアート〜コンセプトを考えて、実際におむすびを握る」

横尾さんは以前は「sloggi(女性用下着のブランド)」を売るブランド・マネージャーをされていた(sloggi、英国のホストマザーのお気に入りだった!)。心地よいブラジャーで女性が快適でアクティブ→女性が笑顔→周りの人たちも笑顔→世界平和。

が、とある日、「ブラジャーがなくても、人は死なない」という事実に気づく。もっと根源的に、人の生命にもつながるところ、必要しているところから社会に対してアプローチできないかと考えて、「食」をテーマにクックパッドに入る。

今回は、参加した際に浮かんだ、自分の「料理に対する考え」をつらつらと書く形で記録します。

好きな料理はなんですか?

私が思い浮かべたものは、唐揚げ、シメサバ、焼き鳥、春雨のスープ、ロースト料理だった。全部、お皿に乗った状態の料理の形態。

実は、この「好きな料理」を思い浮かべる過程にも、「料理」という言葉に対する認知のバイアスがかかっている。つまり、「料理するという行為」を想像したか、「食べ物」を想像したか。私は「食べ物」の方が思いついた。

思い出に残っている料理

イギリスのホストマザーが作ったローストポーク
インドネシアでたべ(させられ)た猫のソーセージ
インドの友人がご馳走してくれた路上屋台のパニプリ
今は消えたデニーズのラムチョップ
小学校の給食のワカメご飯と鯨の竜田揚げ

私の記憶に残る料理は、なんだか「旅」に結びついているものが多かった。私は国内はもちろん、外国の料理にもほとんど抵抗がない。「現地の方が食べられる物だったら、きっと私も食べられる」という信念がある。だから、勧められた料理は、とにかく一口は食べてみる。

私の胃腸が強いのもあるかもしれない。インドでは一緒に行ったメンバーは私以外は全員トイレに籠る日があったけど、私は全く平気だった。こういう風に「なんでも食べられる」というのは、本当にありがたいことだと思う。

私の料理感に(多分)影響を与えた経験

「大泥棒ブラブラ氏」という本に出てくる「じゃがいももち」料理の再現。
ただ思いつきで「食べてみたいなぁ」と思って実際に本の通りに作ったところ、祖父に喜んでもらえてとても嬉しかったことを今でも覚えている。それ以来、赤毛のアン、こまったさんシリーズなど本に載っている料理を再現するようになる=池波正太郎の本の再現にハマる。

料理について、子ども時代に母から本格的に教わった記憶はあまりない。学生時代にバイトで入った調理場で、包丁の使い方やフライパンの使い方、食材の掃除の仕方を先輩から学ぶ。その後、実家に行くたびに母からちゃんと習うようになる。

大人になって、どこかで食べた味を再現するのが好きになるが、これは主人の方が勘がいいのが、少し悔しい。外食する時は、料理の味ももちろんだけれども、そのお店の人に会いたくて、良い時間を過ごしたくて行く。

料理とは?

横尾さんからは、何度にもわたって「料理とは?」という質問を投げかけられた。

フードスコーレ始めてまもなくの4月17日に、私は「料理」について、こう書いている。

料理ってその人の生き方が出てくるように思いました。

私にとっての料理とは、美味しいものを食べた時の味を覚えて、それの再現実験をすることです。ちゃんと再現できるように、食べる時にもなんとなく味を分析して食べている節があります。でもそこまで科学的ではありません。ですから、失敗も結構あります。全く違ったものが出来上がることもあります。でもそれを楽しんでいます。

美味しいものだけではなくて、懐かしい味の再現実験もします。祖母の煮物とか、母の梅干しとか。でも科学的ではなく感覚と記憶が頼りなので、全く別物が出来上がります。レシピを教えてもらっても、同じものが作れない。それが料理かな、と。

向田邦子さんの本で「眠る盃」がありますが、その本に「名人上手の作った味を覚え、盗み、記憶して、忘れないうちに自分で再現して見る。」と書かれていて、読んだ時に「そうそう!」と思いました。 (2021年4月17日)

そして、フードスコーレを受講初めて2ヶ月が経過し、6月5日に再度、料理について私はこう書いている。

言葉として考えてみました。よく似た言葉で「調理」があると思いました。
例文を並べることで、何か気がつくのかも知れない。

学校で、「調理実習」とはいうけれど、「料理実習」とは言わない。
学校で、「調理室」とは言うけれど、「料理室」とは言わない。
「調理器具」と言うけれど「料理器具」とは言わない。
出来上がったものは「料理」と言うけれど、「調理」とは言わない。
お店で売っている魚、「調理済」と表示はあるけれど「料理済」とは言わない。
お店、「小料理屋」とはいうけれど、「小調理屋」とは言わない。
「最近、料理してないなぁ」とはいうけれど、「最近調理してないなぁ」というと仕事的な意味に聞こえる。
インド料理、中華料理、イタリア料理、フランス料理とはいうけれど、インド調理、中華調理、イタリア調理、フランス調理、とは一般的に言わない。
調理師資格はあるけれど、料理師資格はないし、料理師と言う言葉自体そもそも言わない。
「料理学校」は誰でも参加できるけれど、「調理学校」は参加資格が違う気がする。

母が魚を料理する、はなんとなく台所の風景や匂い、食卓が浮かび上がってくるけれど、母が魚を調理する、はなんとなく魚の捌き方の映像、包丁さばきが浮かぶ。

料理って、作る工程からお皿に盛り付けられるまで、またお皿に盛り付けられたものまで全てひっくるめて料理であって、そこに資格はなく誰でも取り組めるものであって、「食べる」という行為まで含めたものなのかな、と。
ヒトは食べないと生きていけない動物なのですが、より豊かで楽しむ食事の時間ために「料理」が存在するのかな、と思いました。(2021年6月5日)

一人ひとり、みんなが違う「料理感」

7回目のフードスコーレで、料理について自分たちの考えを共有してみた。

横尾さんは以前、イタリアで行われた食の見本市で、参加していた世界の人たちの料理感について聞き取り調査をした。そこでは「愛」「笑顔」「情熱」「数学」「芸術」など様々な意見が出たが、その中でも特に印象強かったのが次の2つだったという。

アフリカの男性「カラフルなお皿の上をイメージします」
食べ物の栄養が偏ってしまう、全然食べられない子どもたちにとって、お皿の上にカラフルな食べ物が並ぶ=栄養をしっかりと取れているという証拠で、それが僕の幸せな料理なんだ。
アフリカのビッグママ「Mother's Pride 母親のプライド」
これは、私が家庭を守る、子どもを守る上で、絶対にプライドを持っているものだ。このプライドは誰にも渡したくはない。

横尾さんの料理に対する考えは
「料理=生きる力」
「おいしい(食べられる)=美味しい、人としての動物的な喜び」
「うれしい(喜ばれる)=他人との関係性」
「楽しい=工作」

グループ議論ででた話題は、一人暮らしになって食費を抑えるために始めた料理の変化、同じ惣菜をいかに楽しく美味しく食べるかという工夫(コンビニの蒸しパンは手でちぎってオーブントースターで軽く焼く)、みかんが入った素麺の思い出(素麺に入っているみかん、いつ食べるのかタイミングを知らなかったのだが、梅雨に入れて素麺と一緒に食べるそうだ)、友人同士で持ち寄り作った押し寿司、年末年始に家族で行う「鰤一尾まるまる使った毎年恒例の年越し&新年料理」など、料理の話は誰一人として同じではない。

食費を抑えるための料理=自分が楽しむために料理をする=人と一緒に楽しむためのもの、幸せになるためのもの

数学や化学、人、環境、気温、季節、様々な因子で変化するもの

料理=コミュニケーション

料理は空間や全部ひっくるめて食卓を囲むこと

同じカマの飯

オンライン、効率化されても、人との関係を築くもの=会食、食事、料理は残るのではないか

仲良くなるために食事する?食事するから仲良くなる?

食=人の歴史が見える、食べ物の話は人として盛り上がる

料理感は、その人の経験と強く結びつく。つまり、みんな、違う。

おむすびアート

8回目では、「今のあなたにとって料理とは?」を言語化し、それをテーマにおむすびで表現する。時間は15分。必要な食材を各自用意して、授業開始を迎える。

私は、料理についてこう書いた。

今までフードスコーレで学んできて、また前回の皆さんの料理のお話を聞いていて、私は料理は「愛情」だと思いました。

以前にもこの言葉はよく聞いていたけれど、今はこの本当の意味がわかった気がします。前回、田中さんのコメントを聞いていて、料理について話すときの立ち位置として「作る側」と「「食べる側」があることに気が付きました。

つまり、料理は作り手と食材で完結するのではなく、食べる人が必要でした。その食べる人が、作ったものを愛でてくれた時に、料理は最高の味になると思いました。

前にポケマルの高橋さんもおっしゃっていましたが、食べる側が無関心・無感動では、作り手に対しても、食材に対しても感謝の気持ちは湧いてこないし、どんなにいい食材を使って一流の人が調理しても、味は落ちるのではないかと思いました。

ということで、「我が家の食べる人」は主人なので、おむすびの具で食べたいものを聞きました。また、その素材は、食べた時にその人の顔が思い浮かぶようにしたいと思いました(これはフードスコーレで学ぶ以前にはなかった発想でした)。食材に愛を込めてくれた人、おむすびを作る私、それを食べる主人、その全部が結びつく、だから「おむすび」と。今日はその具材を使って、主人のためにおむすびを作って、終わったら一緒に食べようと思います。(2021年7月27日)

自主学習_阿部 志乃_イロイロ

そして実際のおにぎりはこちら

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Zoomでみんなでせっせとおむすびを握る光景は、さぞかし面白かったように思う(私は台所でiPad撮影だったので、他の方々の作業工程は見えず)。

私は「楽しみ=工作」が全く欠如したおむすびになったけれども、他の方々は様々な実験(試み)をしていて、なるほどなぁ、とも思った。私も当初は「料理は実験」と書いていたのになぁ(全く頭をよぎらなかった)。まぁ、今は「楽しい=工作」よりも、きっと「美味しい」「嬉しい」が私の中ではメインなんだろう。

さて。横尾さんは、「知識」も大事だけど、同じくらい「経験や体験」も大事、その2つの両輪が同じ大きさで初めてうまく回る、というようなことを言っていた。これには強く賛同する。

「経験や体験」には、「知識」だけでは生まれ得ない物語、ストーリーがある。このストーリーが、多分ヒトの心に響き、動かすものなのだと思う。

今回のフードスコーレ7・8回は、まさにその「経験」「体験」を自分の中から引っ張り出してきて、振り返って、お互い刺激しあって、さらには実演するという「経験と体験」にフォーカスした内容だった。


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