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翻訳としてのデータ分析#9 データに「いただきます」と合掌する

原文抜粋 : 日本の翻訳者は偉い?

どうも西洋には自分たちより優れた文明があって、それになんとか追いつかなきゃいけない、その仰ぎ見る視線の途中に、つまり、西洋と日本の間に翻訳者は立っていたわけで、翻訳者自体は何も偉いことはないんだけど、なんとなく仰ぎ見る途中にあるから、それなりに偉い人、みたいに見てもらえる、そういう流れがあったのじゃないかと思います。

『ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-』より

データ分析に置き換えて考える

これは、データ分析にも同じことが当てはまると思う。

偉いのはデータだ。データを生み出すプロダクトが偉い。足跡を残すユーザさんが偉い。そのデータを扱える分析者は何も偉くない。

ただ「優れたポテンシャルを秘めたデータ」を扱う者として、偉く見られてしまうケースは多いと思う。需要が高まっていること、専門的技能が必要なこと、指導者層との接点が多くなりやすいことは確かだ。でも、だからと言って分析者がすごいわけではない。

どれだけ職にあぶれない環境になろうと、ゆめゆめ勘違いするなかれ、と自分には言い聞かしている……つもりだ。

それからもう一つ。僕はアンケートには基本答える。

Youtubeのアンケート、ちゃんと答える。
渋谷の街頭のマーケ調査、おばちゃんにホイホイ着いていく。
会社メアドにくるNPS調査、きちんと理由書く。
オンライン電話の通話品質、星つける。
国勢調査、即答する。
選挙、行く。

日頃データを触らせてもらっている者として、恩返しというわけではないが、データを望む人がいたら、真摯に応えるのが筋だと思っている。

(こういう時、同業者で嘘の回答をする人がいるのが寂しい。いつか罰があたって、外れ値に悩まされるんじゃないだろうか。)

で、ここで言いたいのは、データを提供しようということではない。データに触らせてもらっている、という謙虚さが、我々にはあっていいんじゃないかということを言いたい。

仮に自分が米だったとして、食されるなら、手を合わせていただきますと言われたい。データだって、心を込めて扱われた方が、提供側もまだしも納得しやすいのではなかろうか。

必要以上に恐れ敬う必要はないけれど。データを生業にさせてもらっている以上、敬意を持って、データに接していきたいと思う。

そんなことを言う人に出会ったことはないけれど、これから更にデータ関連職が定着していく上で、そうした職業倫理は、案外重要なんじゃないかと思っている。

今日も感謝を込めて、データに「いただきます」と合掌する。

サポートされた者たちから受け継いだものはさらに『先』に進めなくてはならない!!