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翻訳としてのデータ分析#8 生きがいを感じるほどの分析がしたい

原文抜粋 : 最も生きていると感じるとき

翻訳がはかどっているときは、(中略)、字がノートに現れるのを眺めている感じである。ペン先から出たばかりのインクは、まだ濡れて光っている。

その瞬間を「最も生きていると感じるとき」と呼ぶのが自分にとっては間違いなく一番しっくりくる。

『ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-』より

データ分析に置き換えて考える

「生きがいを感じるほどの分析」から連想する話が2つある。

1つは、行動経済学者のダン・アリエリーさんの「実験結果を確かめる瞬間はワインを用意する。そして成功を確認して乾杯する」という話。ほとんどいつも乾杯していたはずだ。

もう1つは、『イシューからはじめよ』の安宅和人さんの「すべてのファクトが1点に集約しているのが突如ひらめいて、解決すべきポイントが明白に見えたことがあった。その解決を即座に訴えて、業界の序列が変わるくらい大成功した」という話。

(記憶違いだったらごめんなさい。でもそういう趣旨のことを、誰かが言っていたことは間違いないはず)

2つの話が取っているアプローチは、仮説型 or ファクト積上型、と異なる。しかし、大成功を確信しているという点で共通している。

僕にはまだ、そこまでの経験はない。

こういうと、分析職の卑下になるけれども。ABテストで着実に改善したり、至極妥当な改善策を示唆したり、大数の法則の基で確実に機能する推定なんかは、まあやってきた。ダッシュボードもたくさんつくってきた。

何ていうか、負けない戦いの仕方や感謝のされ方、は大分覚えた。

ただそれで、ビジネスの趨勢を決めるほどの働きができるか、めちゃくちゃうまい酒を飲めるか、と言ったら話は違う。

データ関連職には、そこまで求められていないし、必要ないのかもしれない。僕としてもデータで人助けができるならば、十分に働き甲斐は感じる。

ただ、データを預かり、実態を把握しやすい場所にいる者として、できることはもっとあるのではないか、という思いがくすぶっている。

ほぼ日の対談で、「適切な大きさの問題さえ生まれれば、問題は自然と解決する」というのがあった。

組織の問題解決力というのは大体、高いものだと思う。かのピーター・ドラッカーさんは「正しい問いを探すことが重要。間違った問題への正しい答えほど始末に負えないものはない」と書いたが、それは、問題解決力の高さが前提としてあるだろう。

AI的なデータ活用やモデリングに関しては、問題解決をプロフェッショナルとして遂行したい。それを突き詰めていけば、「◯◯を生み出した」という生きがいを得られると思っている。

ただ、BI的なデータ活用に関して言うと、データ分析で可能な最大の貢献は、適切な問いをアナウンスすることにあるのではないだろうか。それが本当に可能かどうかはわからない。再現性にも乏しい気がする。

ただ、それができたとき初めて僕は、祝宴で心置きなく酔い潰れることができるだろう。生の実感を得られるだろう。その成功イメージ達成に向けて精進していきたい。

サポートされた者たちから受け継いだものはさらに『先』に進めなくてはならない!!