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翻訳としてのデータ分析#12 絵描きと分析者

原文抜粋 : 自然さも等価で

翻訳ではいろんなことを伝えなきゃいけないわけです。いろんなことを等価で再現しなきゃいけない。もちろん意味が等価であるというのはひとつありますが、自然さも等価じゃなきゃいけない。

もしかしたら場合によってはいわゆる表面上の意味以上に大事かもしれない。

『ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-』より

データ分析に置き換えて考える

データ分析においては、意味が等価であることを、もっと大事にすべきだと僕は思っている。分析者が感じる意味と、伝えた相手が感じる意味、の2つが等価であるべきということだ。

たまに「何を考えながら、分析ってしているんですか? データとか苦手な自分には全然想像つかなくて」と言われることがある。そのとき、僕は、

「データを見て、裏側で何が起こっているかを想像しながら、知りたいことにどう迫るか考えています。もしかすると、それができるできないっていうのは、絵を描ける描けないに似ているのかもしれません」と答えている。

きっと然るべき習い方をすれば、絵も描けるようになるのだろうけど、僕がまったく絵を描けないから、そう言っている。ただ、データも同じように、データだけを見て事象を想起することについての得意・不得意、というのがあるように感じている。

大学時代、心理学の専攻にいた。1学年100人のうち、心理統計学のゼミに進むのは1割弱くらいだ。そのうちデータ系の仕事に就くのは、1〜2人くらいだ。今もその傾向は変わらない。

文学部の心理学専攻というバイアスはあるにしても、それくらい、データに慣れ親しむ人というのは少ない。

逆に一定数、データを見るセンスに秀でた人はいる。環境が環境なら、この人は分析職に就いてたんじゃないかという人が、どこに行ってもいる。一方、めちゃくちゃ苦手な人も一定数確実にいる。

そういう意味でも、絵を描ける描けない、に似ていると思っている。

だから分析結果というのは、結果が意味するところを、わかりやすく翻訳する必要がある。その手間を怠って、例えばリテラシーの低さをあげつらったりするのは、業界のためにならないのではないか、と僕は考えている。

大体においてデータ分析は、データ好きな人が、時間を費やして行うものだ。得意な人間が、時間をかけて理解にたどり着いたことなのだから、データだけ見せてもなかなか通じない。

伝えるところにまでコミットするのが、データ分析のプロフェッショナルとしての姿勢だと思っている。幸い、最近はインフォグラフィック性の高い可視化方法も手軽に使いやすくなってきている。

ファネルチャート、サンバースト、サンキーダイアグラム、、、全部Google Data Portalで使える。

あるいは、比喩表現やサンプルをピックアップして説明してもいい。そうして例えば、%にこめられた実感を、伝えるのである。

「3%というのは、100人が岐路に立って、たった3人だけが選択した結果です。その人たちは〜という動きをしていて、一方、その他の97人の典型的な動きは〜です」そんな具合に、とにかくイメージが湧くように伝えると、データの含意をみんなが味わいやすいと思っている。

嘘か本当かわからないけれど、中学校の美術の授業で「画家が識別できる色の数は、常人より大分多い」と習った。せっかく自分に色濃く見えたデータの意味があるならば、その意味を伝えたいと思う。

価値あるものが、見えてしまったからには、伝えていきたい
伝わらなければ、見えたことは、なかったも同然になるのだから。

……と言いつつ、そう簡単には価値あるものを見出せない。ので、気合いについての話でした。マル。

サポートされた者たちから受け継いだものはさらに『先』に進めなくてはならない!!