翻訳としてのデータ分析#30 確信は控えめに記す
原文抜粋 : perhapsの実現の程度
perhapsという言葉は、けっこう確信があるときでも使う。いわゆるunderstatement──あえて控えめに言って、かえって説得力を強めるってことはあるんですね。
原則としては、perhapsはほとんどmaybeくらいの弱い意味である。ただし、それがunderstatementであって、実はほとんど確信しているという場合もある。
『ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-』より
データ分析に置き換えて考える
大学の文学論の授業だったと思うけど、
「ちょっと」っていうのは実は強調表現。「とても」よりも強調になりやすい
と習った。それを聞いたとき、面白いと思った。今にして思うと、あれがunderstatementな表現を意識した初めだったと思う。
データ分析において、understatementな表現を、僕はよく使う。特に提案資料では、どんなに確信があって「〜を絶対やるべき!」という場合でも、「〜が有効なことを示唆している」のような表現を使う。
口頭で説明するときは熱っぽく語る。が、資料では控えめに記す。
なぜか。
資料は独り歩きする可能性があるからだ。
立場上、自身が主体でなく歴史を継いできたわけでもないのに、決めつけてはいけない、というのが僕のスタンスだ。考慮できていない重要な要因があるかもしれない。あるメンバーにとっては全く的外れなことを言っているかもしれない。
直接対話をするならば、「そうした部分や懸念を教えてください。でも一旦棚上げして、考えると〜」というのを態度で示しながら話せる。
だが資料に、そうした謙虚さを反映させるのは難しい。
そして、それを伝えられないが故に、誤解や感情的な反発を招くことは、往々にしてある。
分析結果の資料やダッシュボードというのは、どこに出しても、感情に毒されず、オープンな議論が生まれるものであるべきだと考えている。分析というのは、事実をできるだけ、中立で透明な形で伝えるべきだと思っている。
そこからのネクストアクションのディスカッション時には、会社や組織のために情熱的になってもいい(というか僕はなりがりである)が、それは分析結果には載せなくてもいい。
ということを、僕は社会に出て初期に学んだ。初めはデータ分析に色をつけてしまう傾向が強かった。too much 阿部 と呼ばれたこともある(それは別の色んな意味も含めて)。けど、それが功を奏したことは、余り思い出せない。
言わずもがな、いいものは勝手に伝わる。
分析屋は伝えるべき事実を見つけ出して、あとは事実の力に身を任せればよい。
サポートされた者たちから受け継いだものはさらに『先』に進めなくてはならない!!