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三度の不登校から教員へ、15年越しの学校復帰 #2卒業式2日前の半強制的な学校復帰

「#1突然私は不登校になった」の続き

「学校に行きたくない。」

その言葉がでた時に私の母は、

「そんなところ行かなくていい。」

と言ってくれ、母は私の味方になってくれた。

だが、そこから長く、つらい不登校生活が始まった。

小学校6年生の卒業式まで後1か月前の時期だった。

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きっかけはとっても些細な出来事。
担任の先生の勘違いで、クラスメイトの前で叱責されてしまった。

「たった、それだけ?」
と多くの人がそう思うだろう。
そう、それだけである。
あくまで”きっかけ”は。

だが、今振り返ってみると私が不登校になった要因は他にも多くあった。

不登校の要因

環境要因、個人の性格的な要因、人間関係要因

いろいろな要因が重なり、そこでたまたまトリガーを引いてしまったのが、担任の先生との出来事であった。

大人になって振り返ると、いろいろな要因があったと思い浮かぶが、その当時はそうは思えなかった。

当時の自分は頭の中がいっぱいでパニックになってしまい、言語化するのが難しかった。

そのような状況なので、周りも
「あぁ、この子は先生との出来事でこれなくなってしまったんだな」と解釈する。

そして「先生と仲直りしたらまた学校に来れるんだな!?」と原因を解決するために動く。

その後、担任の先生が家庭訪問に来て謝りにきてくれた。

しかし、私はそれでも学校に行けなかった。実は、他にも多くの要因があるからだ。

「クラスの子が怖くていやだ。うるさいから。」
次に私はこの理由を言った。

「じゃあ別室なら来れそう…?」と先生が提案してくれ、別室登校が始まった。

そこでスクールカウンセラーさんに出会い、カウンセラーさんと話すなどして過ごした。

最初は心を閉じていた私だったが、少しずつ心が開いていき、カウンセラーさんとも仲良くなった。

心が許せるようになった私は、甘えたり、注目をひこうとして、ふざけることが多くなった。

いわゆる「幼児返り」だ。

この行動は、「何もできなくても自分は愛されている」という自己肯定感を得るためにとる行動である。

もちろん、その時の自分は「幼児返り」だと知らずに甘えてた。

少しずつ、また人を信頼できるようになっていった証拠であった。

だが、卒業式の2日前にその信頼は崩れ落ちた。

いつものようにふざけていて、カウンセラーさんにドッキリを仕掛けた。

みんなに笑ってほしかった。
それだけだった。

するとカウンセラーが私に叫んだ。

「いい加減にしなさい!!」

「いつまでふざければ気が済むの!!逃げちゃダメなの!!教室ではみんながせっかく待ってるのに!!」

「え、、、、、、、」

いきなり言われた私はパニックになった。確かに私は逃げていたかもしれない。

だが、それは「私の心が治っていなかった」からだ。

次に出たカウンセラーからの言葉は、

「みんなに会ってみる?」だった。私には断る選択肢がなかった。

図ったように、その後クラスメイト全員が私の唯一の心の安全基地である別室に来て、私に一人一人謝った。

「ごめんなさい。」と。

涙を流す子もいた。謝らない子もいた。
すると先生から「謝れよ!」と怒号が飛ぶ。

私は彼らが謝ることを求めていたのではなかった。

ただ平穏な日々を過ごしたかっただけだった。全員が謝り終わった後、スクールカウンセラーがみんなの前でもう一度私に聞く。

「教室に戻らない?」

NOと言えるわけがない。これ以上、誰にも嫌われたくなかった。

そして、私は卒業の2日前に教室に復帰した。

何も解決されないまま、何も心の準備ができないまま、教室に戻った。

そして、卒業式を迎え、小学校を卒業した。

カウンセラーが怒ったのは「私のため」だったのか「全員で卒業式に参加する」という教師の面子を保つためか。
私は未だ分かってない。

周りから見たら、「みんなと仲直りできて、教室に戻って、クラスみんなで卒業できて良かったね!」と思うだろう。
しかし、私の心は何一つ戻っておらず、無であった。
そのような状態で、中学校に進んだ。

また大きなトラウマを負うことになるとはこの時はまだ思わずー。

# 3に続く。


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