個人データは誰のもの_

違和感を信じて考える

今日は、個人データの企画にのっかってみようと思います。

文体もなんか硬めになっちゃいましたが許してください。

ていうか、期限過ぎてるけど、まぁいいや。せっかく書いたしね。

◾️個人データ議論の中でずっと感じてきた違和感

違和感は大きく分けて二つあった。

一つ目は個人データ管理とは、そもそも一種類だろうか?という違和感。

データを「分析」して傾向を把握することと、データを「適用」することは同じデータ管理でも、別物ではないか?ということだ。

例えばである。

自分の個人データを誰かに預けるとする。同じように百万人の人がデータをどこかに預けたとする。この百万人のデータを分析した結果、「デブは癌になりやすい」という傾向が得られたとする。

この結果が世間に発表され、その結果に自分のデータも使われたことに我々は倫理的な怖さは感じない。いや人によっては、世間に貢献できてよかった、新しい発見があって良かったとさえ思うだろう。

しかしである。

この傾向を使って、「あんたはデブだから8割の可能性で癌になる」と宣告されたらどうだろうか?

そこにはより倫理的な問題が孕む。データの正統性も疑いたくなるだろう。

あるいは、Facebookのような政治的な影響や世論の操作も、こういったもののひとつである。こういうクソなデータの適用について、我々は恐ろしく感じる。

要は、分析結果を個人データに適用させるのは慎重であるべきだと思う。

分析と適用は切り分けるべきである。

分析はより緩くても我々はあまり違和感を感じないのではないだろうか?

その分析結果との紐付け、つまり個人データへ傾向を適用して提示することは慎重に管理した方がいいのではないだろうか?

そうであるならば、個人データの管理について、「分析」に供せられる時は管理不要、データが個々人に「適用」するときは、専門家あたりに入ってもらうのがいいだろうと思う。

なぜ、適用時には専門家が必要なのか?

それは二つ目の違和感である、数字の精度に関連する。

■「80%の確率で癌になる」とは何を意味するのか?

「データ精度は8割に達する」「データはほとんどが正確な数値を示した」

データ収集やAI分析に関する記事で、このようなタイトルが新聞を賑わしている。

この数字の精度にも、いつも違和感を隠せない。

2割はどんな外れ方なのか?あるいは、2割はなぜ外れてしまうのか?

「このエクスキューズには簡単には答えられないんだろうなぁ」となんとなく感じているものの、なんとかしないといけない。

最初に話したことを例にとれば、このような違和感がついて回っているのだ。

そもそも、本当に僕はデブなのか?

それから、本当に僕は癌になるのか?

というか、2割の「デブだけど癌にならない人」は何なんだ?

これを個人で把握したり、より精度を高められる術を探すのはなかなか難しい。

誰かに代わりにやってもらうしかないのではないだろうか?

我々はデータ適用のプロなりサービスに金を払う時代になるだろうと思う。そのサービスが優れたサービスかもまたどこかのデータを見て自分で判断する時代になるだろう。

それはさながら、優秀な弁護士を雇うが如く、或いはその業界の権威である医者に手術を頼むが如くだ。金や人脈がものいう、今と何ら変わらない世界だ。

自分の個人データの適用、そして何よりも適用の適否について、我々は専門家に金を払うことになるのだ。

まかり間違っても、自分の個人データが売って金を得られる時代がくるなんて期待しない方がいいと思う。

■結びに

こういう新しいテクノロジーにおいては違和感だけが頼りだと思う。そして僕の違和感はそんなに感度の悪い違和感ではないかなと我ながら思ったりしている。

そもそも「個人データは誰のもの?」は僕の違和感との切り口にマッチしない。

コアなデータかどうか?は僕が感じる違和感と少しズレた切り口なのだ。

個人データの分析はみんなのもの、個人データの適用は専門家のものだ。

それは個人のコアなデータだろうと、しょうもないデータだろうと一緒だ。

しょうもないデータだろうと、適用の中身がクソなサービスには、現時点であっても、我々は怒りを隠さない。

AmazonなどのECサイトのオススメ機能なんてのは典型例だ。

僕は僕的にどうでもいいものもAmazonで買っている。

僕にとってワックスなんて整髪できればなんでもいいのだ。

それなのに一回ワックスを買うと「他にも良いワックスがあるよ」と言ってくる。

しょうもないデータにおいても適用がクソだと本当に腹が立つものだ。

こういうクソなデータ適用は今後より厳しい目で見られていくだろう。

専門家が存続できるかどうか、人気を得られるかどうかは、我々一人ひとりの評価の影響を受ける。今の社会構造と何ら変わらない。いいサービスは生き残り、悪いワービスは生き残る。

それは個人データにおいても同じことだ。

結論:個人データの分析はみんなのもの、個人データの適用は専門家のもの

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というか未来の世界はなんだかデータ疲れを起こしそう。データのない娯楽が余暇になるかもしれない。今もデジタルデトックスがあるくらいだもんなぁ。データデトックスとか言い出す人がいるんだろうなぁ。

ということで、また明日。


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